直感続き...遠くを見ていること

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昨日、何かを書こうとして、ひどく遠ざかった気がした。
夜、堀茂樹さんの慶応大学での講義をWebで見て、ちょっと気づいたことがある。

まず、昨日の時点では、アーティストが直感から発想して何かをし続けることの意義、について考えていた。だが、ただの独り言になってしまったのはなぜ?
私の中に、必然性が無かったのかも知れない。
つまり、計画性がなかった。
結果を直感できなかった。
それが今日のお題。

ずっと考えていたのは、私が直感と思っている感覚はどのような姿をしているのか、ということ。
それが、昨夜、堀先生による本の読み方についての講義から少し見えた。
先生の主旨は、
「本(特に古典)を読むときに、自分の情緒とか現在の状況とかに引きつけすぎてはならない。
あるいはイデオロギーにも引きつけてはならない」
ということ。
どんな本も、今ここの私の状況によって解釈されがちだが、理解の目線をもっと上に置きましょう、ということだった。

メディアリテラシーとか言われるものすらそうだ。
今ここの私にとって、それが良いか悪いか、役に立つか否か。
それだけが送り手の判断基準なっている。
それを汲み取ってあげるのが、大衆。

もちろん、今ここで料理をするために必要なレシピというものはあるだろう。
ひとつの料理にひとつのレシピ。
1対1対応ならば、必要なデータは膨大になる。
メディアが流すのは、その1体1対応の膨大で個別な方法。
けれど、料理をしようするときに私を助けるのは、個々のレシピではなく、料理全般についての知識とノウハウである。
調理法や、素材の特性、食べ方などが、系統立ててラベリングされ、組み合わせできる知識として整理されていれば、個々のレシピはそれほど必要とされない。
目の前にある素材を出発点として、最終的な料理が想定され、足りないものつまり買い足すものが確認され、それに伴う調理法と味付けが決定される。
この時、何を想定しているかというと「出来上がる予定の料理の姿と味」である。
料理という行為は「出来上がるはずのもの」から映像を逆回しするようにして今に至り、そこから作り上げられていく。
ちょうど映画の編集のようなもの。

例えが長くなってしまったが、つまり、本を読むときにも「最終的な理解の姿」が見えていなくてはならない。
そしてそこに至ための正しい姿勢をとっているは、規定された環境にいる自分と呼ばれる個人ではなく、自分を含む人類全体なのである。
堀先生の言う最終的な理解の形が何をバックグラウンドにした結果かといえば、「真理か否かというその一点を検討する姿勢」だと言う。
古典が書かれた時代に引き比べて、現時点では、とか、実効性の有無とか、社会適応度などではなく、ただ、純粋にそのテキストに真理はあるか否かという眼で読まなくてはならない、ということである。

もちろん、人は、いつも地域性とか宗教の如何、時代性のような多種多様な環境のバイアスを通してしか物事を知覚することはできないのだが、それを超えて未だ残るものを観よ。
つまり学問の主眼は、テキストから何をはぎ取るべきかの知識を得るということでもある。
只今現在の自分のバイアスを凝視するとこと。
そして、はぎ取った末に残ったものから真理を抽出する努力をすること。
言わば、不変・普遍の要請に耐える言説。
それを探す意欲は、「最終的な理解の姿」をどう想定するかにかかっている。

アーティストも、遠くを見て、感じ取っている人のことだ。
只今ここで起きている様々なことに含まれる形にならない違和感を察知して、遠からず起きること、その先に来るはずの回復までを感じ取って表現に繋げる。
今ここの、複雑怪奇な現実の中で、大いなる感受性を全開にしながら、感性の中のある部分だけはここにおらず、遠く遙か彼方へと向けられている。
未来に続く道に発生する、痛みや争いや和解や平和、あるいは絶望や希望、あるいは生と死。
その過程を見晴るかしながら、映像を逆回しするようにここに戻って、今から始める。

未来と言っているが、それすら便宜的で、未来というよりは、またひとつ学んだ私たちの立場、学んだ末の私たちの心、または、再び別のフェイズで同じ種類の過ちを犯すはずの私たちへの憐憫。
そういった物事を、感性のどこかで感じ取れる人々のために、知っているがそれを形にできないでいる人々のために、表現という姿を借りて外に出すのが、アートと名づけられた行為だ。

彼方を見晴るかす私の心は、自分としては鈍いと感じながらも、相対的にはやや鋭いようだ。
アウトプットすることを増やそうと思えてきたが、依然としてインプットは膨大である。
日々、磁石に寄る砂鉄のように、私は発信を求めて、近づく。
それは、仲間増やしに似ている。

音楽演奏では、いつも全体を見ながら部分を見ている。
部分を作り上げるとき、全体を感じている。
曲には終わりがある。
けれど、音楽をする行為には終わりがない。

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このページは、kyokotadaが2011年6月14日 10:49に書いたブログ記事です。

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