誤謬か運命か

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休日には、日頃触れない色々な情報を見ることができる。
現在の日本の状況を見ると、貿易赤字が凄くて、でも新人の採用は団塊世代の脱けを補うために上がっている。
大いなる怪我はしているが、まだ少し余力があるところかも、と思わせる。

ただし、原発関連では、発表されていない汚染や、アメリカの原発でも事故があったというツィートが見えたり、よく分からないことが多い。
放射線被爆の影響で、免疫力が下がるはずだという意見があり、全体に病気が増えるのかな、と気になる。そして、電車に乗る毎、人身事故の報告に遭うので、それも気になる。
鬱の蔓延。

人々の危機感は、否認のために外には出ず、さらに深く抑圧されて、日々はいつも通り習慣的に過ぎていく。心理的な防衛機制は、危機の時、信じられないほど上手く働く。いわゆる、火事場の馬鹿力なのだ。この機制は、ひとりずつ使う種類も強度も異なるから、表面に現れる行動からは推し量りがたい。事象に対して、無視してみたり、ものすごく近づいて取り憑かれたようになったり。
ふざけるつもりはないが、恋愛の時と行動が似通っている。
わざと無視したり、恋なんかしていないと否定したり、かと思うと隠れて盗み見たり、ストーキングしたり...。

訳の分からないもの、あるいは自分に多大な影響の起こる事態に対して、人は他人からは奇妙と見える対処、行動をするものだ。
その行動や行為の機微が、いずれ誰かの客観によって文学になったり、映画になったりする。
人間...定義づけられず、推測不能で、限りなく不可解な存在。

自分を尺度に解釈し、推量すると、たいてい間違う。
だから、ただ子どものような眼で観察したいと思う。
曇り無く、起きていることをそのまま、ただ見ていようと思う。

休日につらつら考えた。
第二次大戦で、大日本帝国軍部の迷走、独善に鼻面を引き回され、死にまくった国民は、その反省から平和憲法を遵守してきた。
だから、大丈夫と考えて一生懸命働いてきた。
しかし、実は、かつての軍部と同様の形で、国民の鼻面を引き回し、戦争並みの苦労と世界からの信頼を損なう事態を引き起こした人々がいた。
私たちは、何故、政治家や官僚や経済人を信頼できていたのだろうか。
それは人の良さにつけ込んだ、詐欺だったのか。
私たちは、人を信じ、長幼の序をいくらかは重んじ、優秀とされる人々を信頼しようとしてきた。
けれど、第二次大戦と同様の構図で、またも疲弊に晒される。
私たちのメンタリティーはどのような理由で、こうも自虐的なのか。

何度も同じ間違いが繰り返されるのは、考えなくてはならないポイントがずれているからなのではないか。
それとも、世界中のそれぞれの集団(国とは言えない)が、それぞれに特有の偏りを孕んで、それはある程度温存されるべきと解釈されているのか。
偏りは、地球規模の危機管理として有効なはずだが、それぞれが偏りなりのクラッシュを世界中にお見舞いし続けるというなら、それはちょっと問題だ。

お互い、各集団の哲学や文化を蹂躙するのは避けようとしているのだ。
文化的な侵略はあからさまにはしないことにしているのだ。
この自制すら、これまで、さんざん植民地主義や帝国主義が引き起こした惨禍から学んできた成果なのだが。
まだ、学び足りないのか、それとも、行けども行けども、私たちは間違い続け、悲惨を舐め、それから回復する心構えや道筋を学び続けなくてはならないということか。
多分、これが人の世というものなのだろう。
人は、幸福を求めながら、いつも間違う。
間違うと言うより、バランスを欠き、ひずむ。
ひずむとそこにエネルギーが堆積する。
そしてクラッシュする。
地震のように。


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このページは、kyokotadaが2011年6月20日 11:05に書いたブログ記事です。

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