つれづれなるままに

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何かを創り出す人がいる。
作り出されたものを使うだけの人がいる。

私は自分を立ち上げ屋だと考えているが、そういうタイプは、何も無いところから、何かを創り出すのだ。
たとえば、会社とかシステムとかイベントとか歌とか本とか...。
仕事として頼まれてやる場合もある。
手伝うときもある。
たいていの場合、私は出来上がってほしい姿から逆算して、予算や人手や期間などのやりくりを創出し、ついには形とする。
創り出して場ができると、次にはそこにソフトを入れていく。
恒常性を保つシステムや祭り的なイベントなど。
初動は大変だけれど、回り出すとマニュアル的なものが自然に立ち上がるので、関わる人材は外在化され始める。
すると、待ってましたとばかりに、創出するアイディアには欠けるが、提示されたマニュアルに沿って楽しむことはしたい、という感性の人が登場する。
やがて彼らは自分たちだけでできると言い出す。
始めた側は、これまでの経験から、無理っぽいとは思いつつ、説得など無効と身に染みているので、ある程度は渡してみる。
すると次には、コストがかかるから、うるさい危機管理を言うクリエイターは邪魔だと言われ始める。
クリエイターとは、本来の危機管理を熟知した人のことだ。

その後は、当初の発想に含まれる危機管理は忘れ去られたまま、コスト第一の人々が楽しげにその場を使うことが続く。
少しずつ瑕疵が溜まる。
でも、誰も気づかない。
クラッシュするまで。

色々な人がいるからね。
原発見ていて、人のやることは規模は違えどいずこも同じだと思った。

石原都知事の発言が物議を醸している。
核を持て、徴兵制を敷け、とか。
息子のヒステリー発言と合わせると、良純含め、家族力動に興味が沸く。
でも、問題発言は、そういう感性の人々がこの国にはたくさんいるということを報せてくれる良い機会ではある。だって、誰かに受けようとしないで言うはずがないもの。
それに、何しろ、選挙で勝っちゃうんだよ。

ゾンビ映画とは、「訳分かんな〜い」恐怖な人々を描くメタファーなんだ。

誰かが、「人は地球にひどいことをしている。でも人類が滅びても、ゴキブリか何かで地球は生き続ける」と言っている。地球至上主義か。
私は、「生物というものの実体は謎。ただ、遺伝子とか、魂とかがあるだけなら、人も仮の姿、あるいは偶然性に満ちたひとつの結実でしか無く、地球での実験に失敗した後には、別の環境を求めて宇宙へと飛び去るのではないか」と考えたりした。

何がどのように、何故存在するか。
少し、視点を変えると人間が都合良く使いすぎるメランコリーから離れられる。

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このページは、kyokotadaが2011年6月21日 12:09に書いたブログ記事です。

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