つまりは相対的なのかも

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朝の連続テレビ小説で、幸せになる、というテーマみたいなものが語られる。
幸せか...と考える。
幸せという言葉は不幸だ、と思う。
なぜなら、実感されたことがないから。
だれひとり、そんなものを知り得ない。

幸せとは、絶対的なものだ、という考えがある。
周囲に惑わされず、自己の充実を基準にする、みたいな。
でも、それはただ、他の時間と比べて幾分楽だったり、偶然にも希求していた満足が果たされたりした瞬間のことを指しているだけかも知れない。

グルメを究める、アート指向の料理があるかと思えば
餓死する子どもがいる。

(と、ここまで書いて、昨日放っていたのでその続きです)

世界では、何でも起きている。
起きたことに対する「人」としての感受性とか、生理的な反応とかは、いつも自分を何とか生かす方向に向かって動く。
日本の安定した家庭でつつがなく暮らす人は、世界規模で見ると大変に耐性が低いと想像できる。
それではまずいんではなかろうかと薄々感じた私は、ルポとか文学とかで想像力を養ったつもりでいた。実際にクラッシュが起きた日々には、怒ったり不眠になったりする激烈な自分の反応を感心して眺めたりした。
人は、自分が次の瞬間どういう行動を取るかなんて分からないのだ。
辛い事が起きたら、私なんか絶対生きていけないわ、とか、かつてのお嬢で平和な私は考えていた。
しかし、人生ではその数十倍くらいのしんどいことが起きた。
振り返ると、その都度、闇雲に動き回って何とか生き延びてきた。
不思議だ。

今、幸せですか、と訊かれたら何と答えるかな。
「そう聞いてくるあなたよりは幾分幸せかもね」
とでも言うかな。
「何でそんなこと聞かなくてはならないの」
と怒るかな。

朝の連続テレビ小説を見て、半丁な気分になる自分は、幸せって概念が嫌いなんだな、と分かった。
朝の愛情に溢れた連続テレビ小説は、愛に恵まれなかった人たちの心に塩を塗りつけていないのかな。どうなんだろ。

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このページは、kyokotadaが2011年9月 8日 10:47に書いたブログ記事です。

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