kyokotada: 2005年7月アーカイブ

懇切丁寧

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 あんまり暑いので、おにぎり買うついでにアイスクリームを買った。いつもは、ミスドのバニラシェイクにしているのだが、別の店を回るのが面倒だったので、コンビニにある、ロッテの「coolish」で妥協した。チューチュー吸いながら、頭が痛くなるとお休みして、パッケージの裏側に書いてある注意書きを読んだ。


「冷凍下でもやわらかいので、開封時に中身が飛び出る恐れがあります」
 ふむふむ。多分、お客様苦情係に、
「中身が飛び出して服汚しちまったじゃないか、どうしてくれる」
という電話があったに違いない。 
 次のは、
「これはアイスなので、一度溶けたものを再び凍らせると品質が変わります」
 これは、
「凍らせたら分離してまずくなった、不良品だから金返せ」
 という苦情に対する予防措置だろうか。
 さらに続けて、
「お召し上がりの時は強く吸いすぎないようにご注意ください」
 これはかなりイケてる。丁寧なことに、強くの文字の上には強調の・・が打ってある。
「吸っているうちに口がおかしくなった。商品企画に問題がある、何とかしろ」
 あるいは、
「吸っていたら入れ歯が壊れた。弁償しろ」
かな。
 たかがアイスひとつに丁寧すぎるご注意の数々と思いつつ、ここまではそんなこともあるか、という気持ちで読んだのだが、次の文言に至った途端、噴き出してしまった。

「長時間持つと手が冷たくなります」
 これは一体...。
 アイスはアルミパウチに入っている。霜がついて見るからに冷たそうだ。これなら頭も冷やせるぞ、と暑い日などは嬉しくなりそうだが、
「長時間持つと手が冷たくなります」


 お客様苦情係に、この文言を引き出すようないちゃもんをつけた方、それってどのような内容だったか教えて下さい。


 常連客というものになれない。
 ひとつ所に落ち着けない。
 その道一筋ということばが嫌い。

 好きなのは、気の向くまま、風まかせ、流れに乗る。
 あるいは、適当、場当たり、その場凌ぎ...。

 計画性がない。
 先のことを余り考えない。
 今が何とかなっていると、まあいいか、と思う。

 思いつきは多彩で、少々無理があっても突き進んでしまう。
 結果、様々、周囲にストレスを与えているだろうと薄々知っている。
 けれども、何だかそのことがきっかけになって、事は雪だるまが大きくなるように発展している。

 欲張りだという自覚はない。
 ただ、人と知り合うことや、ともに何かを完成させることは大好き。
 当たってくだけろ。
 それで気がつけば、たくさんの人を知り、仲良くなっている。

 素晴らしいと思う人を、その人を生かしてくれそうな知り合いにせっせと紹介する。
 すると、あちらからも素晴らしい人がやって来る。
 その人がまたさらに、素敵な人を連れてくる。
 また新しいことを思いつく。

 自分はとんでもない欲張りか、とも思うけれど、親友シバ君の考えに従えば、欲にも色々種類があるらしい。
 無欲を貫く欲もあり...。

 私のことを「気紛れ」と思う人もあり。
 たしかに、久し振りに会う度毎に入れ込んでいるものが変われば、そう思われても仕方がない。
 ただし、自分の中では、入れ込む対象には、説明し難くも、ものすごく一貫した背景があったりして。

 たくさんの人や興味の対象を集めるのは、収集癖にも近い。
 そして、その集めたものにフェティッシュなのが私の生きる道である。
 毎度、快感に耽溺しては、ついにここまで悟ったぜ、と良い気分になっている。
 先が心配ではある。

本が読めない

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 ライター稼業をしていた十数年というもの、ちょっと異常とも思えるほど活字を読んでいた。何を読んでも参考になったし、学びたいこと、知りたいことが山ほどあって、いくら読んでもその本から関連してまた読まねばならない本を探し当てたりしていた。

 それが、この数ヶ月、ほとんど本が読めない。
 そんなはずはない、と考えて、始終図書館なり書店に立ち寄ってめぼしいものを手に取るのだが、どれを取っても全然面白くない。
 一体どうしたんだろうか。

 子どもの頃、物心ついたらもう黙読していた。
 子どもというのは、字の読み始めに音読するものらしいが、親に言わせると3歳くらいでふと気づいたら、じっと本を黙読していたという。
 「お前には字を教えた覚えがない」と言うのである。
 当然、私自身、字を習った記憶もない。
 いつの間にか覚えて、何でもかんでも読んでしまうので、親は滅多なものをテーブルに載せないよう気をつけていたらしい。
 しかし、それでも何でも探し出して読んでいた。
 小学生の頃は、父親が寝床で愛読していた『月間宝石』まで、親の目を盗んで読んでいた。

 早熟で興奮しやすいたちなので、書物ほど面白いものはなかった。
 少年少女世界名作全集などは、しかし、余り好きでなかった。
 中学生頃からは、SFや推理小説にはまり、その後三島由紀夫にはまり、純文学方面にかなりはまり、大学からはエッセイものや哲学・心理学などの学問解説書にはまり、子育て中はフェミニズムや教育ものにはまり、ライターとなってからは音楽書や書く物に必要な参考図書を読み漁り、何だか、本とともに人生を過ごしてきた気もするのだが、歌を初めてからこっち、どんどんと読む量が減り、ついにさっぱり読みたくなくなった。

 その代わり、音楽は聴くようになった。
 書き物をして、本ばかり読んでいた時代には音楽は聴けなかった。
 まさに、解説などの書き物に必要な音楽を聴く程度。
 それが今は、なめるように音楽を聴いている。
 音楽というのは、色々な楽器で演奏するものであるから、何度聴いても新たに聞こえてくる音がある。
 「あれ、これこんなリズムだったっけ」とか、「気づかなかったけど、ギターここでこんな音入れてるわい」というように、聴くたびに聞こえていなかった音に気がついて楽しい。

 かつては、「ださいなぁ」と感じていた音楽だとしても、たまたま自分が別ジャンルのことに挑戦しようとなると、途端に大切な参考資料となり、その来歴などを考えて興味が沸いてくるのだ。

 そこで、読書と音楽の自分の中での位置取りについて思いめぐらせば、それはかなりの程度『脳』の使い方に関わっているような気がした。
 本を読んでいるときに使う脳味噌の部分と、音楽をやるときに使う脳味噌の部分は異なっている。
 そして、脳味噌に出る快感物質というものは、ある程度習慣づけないと、スムーズに出てこないようなのだ。
 つまり、ずーーっと本ばかり読んでいると、活字情報から快感を得る回路が出来上がる。
 同様に、ずーーっと音楽を聴いたり、演奏したりしていると、それによって快感を得る回路が出来上がっていく。

 これが両立すれば何てことないのだが、両立できる程度にしかやらないでいると、どちらも大した成果に結びつかないという気がする。
 始めるなり、すぐに「快感」に結びつく回路ができたとき、その人はその道で何とかやっていけるだけの必要条件を手に入れたことになるんではなかろうか。
 「良くおやりになりますねぇ」
 「いやぁ、根っから好きですから」
 というのは、つまり、そういうことなんだろうなぁ、と思うこの頃である。

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