kyokotada: 2010年9月アーカイブ

肩の力を抜く

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  ボイストレーニングを始めるとき、私は良く「肩の力を抜きましょう」と言う。生徒諸氏の身体の動きを見なくても、目を閉じていたって、発声する人の身体の状態は分かる。

「肩の力を抜きましょう」

 どんな時も、自然体で、身体の中心から外に意識を広げながら、楽にゆったりと立つ。

 私の会社名、「ラルゴLargo」は、そもそもイタリア語で、「幅広くゆったりと」という意味である。音楽の速度標語になる時は、とても遅いテンポの指定に使われる

 ゆったりと自由に幅広く仕事をしよう、そういう意気込みだった。

 それがいつの日からか、発声すること以外の仕事で、やたらと肩に力が入っていた。それらの仕事は多岐にわたるが、肩に力が入ったのは、自分のためではないことをやりすぎた結果だ。

 私の会社は小規模で、大々的に業界に打って出ようという性質の企業ではない。それが、外界からの要請に応え続けているうちに、何だか妙なことになっていた。

 反省すると言うより、世の中をどう捉えるか、それこそが難しいと感じている。世の中をどう理解するのか、そして私はそのうち、どの部分とリンクしたいのか。

 独りで生きているわけではないのだから、周囲の人々の便宜も図らねばならない。それでも、肩に力が入ってしまうほど便宜ばかり図るのはいかがなものか。このところの仕事は、多分どこかで間違っていた。

 人は弱く淋しい。

 だから、周囲の人に喜んでもらいたいと頑張る。

 けれども、そうする人に対して同じように感謝や愛情を返そうとする人は、そう沢山はいない。

 それでも良いから、他人のために、見返りなど求めずに、と頑張る気は、どうやら私には無いようだ。当たり前だけど。

 これからは、自分のテンポで、活き活きと闊達に。

 そして、なるべく無理はせぬように。

  9/14 吉祥寺のMANDA-LA2で、めでたい誕生日ライブを行った。

 同じ誕生日であるピアノの北政則さんは、私の整体の先生である。彼のお陰で、死ぬかと思った偏頭痛から生還し、10年間レギュラーの仕事を1日たりとも病欠せずに続けるという、驚異的な健康管理を維持させてもらっている。

 北さんは、フランス滞在経験があるので、現在はシャンソンの先生もされている。ピアノはオールラウンド。

 そこに、ベース多田文信、ドラム宮崎まさひろ、サックス松風鉱一というベテランを動員しての、共同バースデイライブである。

 これまでは、小さいライブハウスでひっそりやっていたのだが、私の歌手復帰10周年を言祝ぎ、立派なハコで決行した次第。お陰様で満員でした。

 近頃、繊細な表現が好きで、ドラム抜きのライブが多かったのだが、今回はドラムとサックスが入るという重厚な所帯で、アレンジも色々凝ってしまったため、思った以上にハードなことになり、終わった後、身体にきている感じがする。なまったなぁ、というのが正直な気分。暑すぎた夏の間、いつものように徒歩通勤も出来ず、少し体力が落ちたかも。

 誕生日を境として、天候は大雨、気温は一気に低くなった。いよいよ、また運動を開始しないと体力が戻りません。

 秋は、ひたすら歩く。景色の良い場所を求めてどんどん歩くことにしよう。

  ごく幼い頃、家庭用のポータブルテープレコーダーで遊んだ。父は、新しい物好きで、家には昭和29年には既にテレビがあり、続いてステレオセット、8mmカメラと映写機、そしてオープンリールのテープレコーダー等が加わった。

 そのテープレコーダーに、母が「暮らしの手帖」に連載されていた童話(挿絵は藤城清治さん)を朗読し吹き込んで、3人の子どもたちは、夜それを聴きながら眠りにつくという、素晴らしい情操教育が企画された。

 この慣例はどのくらい続いたのだったろう。半年くらいだろうか。このようなアイディアの大方は、予測したよりずっと早く飽きられ、中止になるものだ。その後、テープレコーダーは私達兄弟の格好の玩具となったわけだが...。

 テープレコーダーが面白いと感じられるのは、自分たちの声が変わって聞こえるからだった。何より、普通に話して吹き込んだ声を早回ししてみるのが、最も興奮する遊び方だった。

 そして、その頃大流行したのが、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」。私達は何度も、テープにこの曲を歌って録音しては、速回しして聞いた。みんなで笑い転げた。

 

 のっぽ2人とちび1人のフォーク・クルセダーズ。のっぽのひとりは京都府立医大に在籍していた。ふざけた歌を歌う人が秀才であることは、ふざけるだけが関の山という、私たちみんなの自尊心をくすぐった。

 その秀才が北山修である。

 彼は、精神科医となり、ただ臨床に明け暮れるだけではなく、学会発表をし、論文を書く学際的臨床医となった。

 

反復強迫

 私は、大学以来、心理学と精神医学の勉強を細々続けてきた。しかし、系統立てて学ぶ方法を軽く撫でさすった程度で、心からその世界にのめり込んだことはない。ただ、興味が消えないので止めずに続けている、といったところ。

 それでも、書架に並ぶ心理学関係の本はかなりの量になる。量に比して、私はよい読者でも学習者でもない。理解の程には、ひどく自信がないのである。

 ところが、北山修という、一時期にせよ、プロとして音楽をやっていたことのある精神科医、しかも、年齢が近い学者の本を手にしてみて、ひとつの大きな発見をした。

 

 それは、あたかも小説を読むように、あるいはエッセイを読むように専門書を読むことが可能かも知れない、という目覚めだった。

 反復強迫という伝で言えば、私は、人間の生きる現実の外に、学問の世界があると思っていたらしい。らしいというのは、それが明確には意識されていなかったからで、今回、本書を読みながら初めて、自覚できないほど自然に、そう思っていたことに気づかされたのだ。

 どうやら私の劣等コンプレックスは、形而上学というものの存在を、純粋で究極的な思考の果てにある夾雑物のない結晶のようなもの、とばかりに祭り上げていたようだ。その上、私ごときに理解されるものは、それまでのことでしかないとばかりに、理解したことは端から格下げしてしまうという、まるで子どもの恋愛のような本読みであったのだ。

 

 若い頃、学問との付き合い方に難儀したのは、そういう、強烈なまでの超自我を掴んで見ていたせいであった。

 私が師事した教授たちはいずれも秀才の誉れ高く、田舎の学生が、どのような文化環境から上京しているのかを、ほとんど理解できない様子だった。劣等生が困っているのは、意欲のある無しのみならず、生まれ育った環境の、文化度の低さであることに気づく想像力を持てなかったかも知れない。

 

 北山修は、私が理解していた「反復強迫」の概念を、それとは全く様相を異にする物語を差し出しながら説明していた。その一説を読んだとき、目の奥で何かが光った。煌めいた、と言っても良い。瞬間私は、これまでの人生の間ずっと、理論や概念を理解するとやっかいなことになると戦きながら、どこかで自分を停止させてきた「何か」を見た気がしたのだ。

 それに気づかされた時、私は、自分が理論や概念の理解に、必ず難儀を感じていたことそれ自体が、私自身の反復強迫の表れであることを理解したのだった。

 それは、この本のタイトル通り、私にとって「劇的」な出来事だった。

 

 理論を構築し、世間を慨嘆させる学者の書物。その売り文句に圧倒され、押し頂いて読んでいる限り、いつまで経っても意味など分かりはしない。

 難儀することを有り難がっているだけの、暇な読書となってしまう。

 

 書物は、どれも、どれほど高尚であろうが、所詮人間が考えだしたことを書いてあるものだ。入口を捜し出せばどこかからするりと内側に入り込むことができるはずなのだ。その入り口を発見できない裏には、時に、抑圧とか否認とかがあるかも知れない。

 

 役者が脚本を読みこなすときのように、著者の心なり思考なりに入り込んで、共時的に存在しながら読み進める時、その学者がかくも膨大な紙数を費やして届けようとしたアイディアの息吹を感じることができるはずだ。

 

 まずは、自分の外の現実を、憧れを含むもの全てに於いて、必要以上に難解だと考えないこと。

 心構えをそこに置いて、再び書物を手に取る。

 今までは、どうしても熱が動き出さなかった、フェアバーン辺りから読み直してみるとしようか。

 ブログを更新しようとして、思いついたテーマを書き始めたら、大変に長く、中身の詰まったものになりつつあり、何度も読み返して書き直し、ウーームと考え、途上で専門家の話を聞いたり、本を読み返したり、手間がかかっている。

 暮らしていると、色々なことを考え始める。

 週末、友達と富士山の麓、山梨県の忍野に行って、きれいな水を見、美味しいものを食べつつ、雄大な富士山の全く雪のない姿を拝んだ。

 その途上に、私は自分の心のことで色々気がついてしまい、一体何が起きているのか、判明させたくなった。

 それを書いているうちに、何日も過ぎてしまう。

 とにかく、私は、富士山を見て、その麓の田園に飛ぶ鷺を見、湧水を見て、何か思いついたのだ。

 

 ブログの体裁の方が簡単に書けると思ったけれど、私は何事も簡単に行かない人らしい。「今日こんなことをしましたよ、ハッピー、以上よろしくねー」みたいな心に、一向ならない。

 私のブログはどこを目指しているのだろうか。

 

 そして、このブログは、なぜか書き込みが出来ない模様。

 それも良いけど。

勘の有無

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 大学を出る頃、母親と私は全くそりが合わず、いつも言い争いをしていた。

母親と私とでは、日本人とアメリカ人以上に世の中の捉え方が違っていたのだ。

世の中の捉え方なんというものには、正しいかどうかという基準などないのだが、私の母という人は、「正しい理解の方法があり、しかもそれを誰よりも分かっているのはこの私である」という確信を、羞恥ひとつ含ませずに公言できる人であった。

 従って、私には反論する言葉の勢いというものからして、到底勝ち目など無かった。想像してみて欲しい、敵は自分を神に近いとすら信じている「金満主婦」なのである。

 

 私の対抗手段は、「私は勘が良い。それも並外れて」と思い込むことだった。ただし、それは、社会的に成功するとか金儲け等をするという種類の人生を進むための「勘」ではなかった。

 私は、自分の「勘」を、好きなことをどれだけいっぱいできるか、という道を探し出すのに使った。

 

 母が結婚を勧め、それを私が拒否するという前時代的なバトルが続いた。ついに母は、ほとんど首を絞めてでも言うことをきかせようくらいに思い詰めたらしい。一生分くらいの罵詈雑言を浴びせられた。

 母の提案とは、「地元の歯医者と見合いをして結婚し、実家の近くに住む」というものだった。私は、その提案を耳にしてすぐ、「それを呑んだら、自分か相手の男が発狂して死ぬだろう」と予測した。

 心折れてそうしていたとしたら、私は今頃、自分の夢に挑む機会を失った日々に対し、あるいはロマンチックラブの結果としてするはずだった結婚ができなかった愛情生活に対し、あるいは東京にいたかったのにいられなかった地理的不満足に対し、それ以外の全ての不満に対し、母を呪い、夫を呪って、無惨で嫌な人間になっていたはずだ。これは、昔の傲り高ぶった自分を知っているだけに、確信を持って言える。

 

 母は、めっきり弱ってきたこの数年だけ私を責めなくなったが、それまでは、本当に実の母だろうか、と疑うくらい私を責めていた。母の全ての不満は、私が手本とした「勘のいい父親」と娘である私のせいになっていた。

 しかし、母が不満しか言わない人になってしまったのは、そもそもの生き方の選択方法が間違っていたためではなかったろうか。

 

 常識として絶対に幸せになるはず、という確率論のような選択をすると、なぜか人生に少しの傷も許せなくなるようだ。何となれば、その選択のために大切な自分の欲求を殺したのであるから。

 自分の快を殺す選択をした人は、「しょうがないなぁ的愛情」とか「情けない泣き笑い」とか「自分を許してやるように他人をも許す」とかいう曖昧にまみれた、60点合格の並な人生を「惨敗」の人生と了解してしまうようなのだ。そしてその惨敗要因はすべて、自分の幸せを託して期待したのに、一向応えてくれなかった周囲の人々のせいとなる。

 

 私は、無茶をした割に家族もいるし、仕事もあるし、友達も大勢いて、本を読んでも音楽を聴いても、こうして文章を書いても、歌を歌っても楽しいので、60点主義の割には結構な出来だ、と自画自賛している。

 身の程を知れば、人生は割と楽しいものとなる。

 

 全ては「勘」だったのだ。

 人とはどんな生き物なのかを考えるとき、私は自分の勘に頼った。

 道を歩いていて「寿し勘」の暖簾を見るとぐっと来たりする。

 勘を頼りに生きるというのは、言い換えれば、自分自身を信じるしか手がないということだ。

 自分自身の気持ちよさ、自分なりの正義なんかを信じる他ないということなのだ。

 

「勘」は経験値でも、戦略でもない。

それは、私が自分を動物だなぁ、と思う時に発揮される、無意味、無価値の「方向探知機」なんである。

 

 

 いつのまにか、ボイストレーナーをしていた。

 はじめは、「歌」を教えるつもりだった。

 

ところが...である。

じつは、歌を歌うには、というより正確には、思い通りに歌を歌うには、まず発声ができなくてはならない。

楽器が上手な人も、リズム感の素晴らしい人でも、歌うとなるとなかなか思い通りには行かない。

それは、発声という行為が楽器演奏に劣らない技術と修練を要するものだからなのだ。

 

発声は、声帯でする。

人にとっての発声器官は声帯で、唯一、これだけである。

声帯は、気管の喉に近い出口付近にある、二枚の粘膜とでも呼びたいような小さな器官。

これが周辺の筋肉によって緩み緊張し、閉じたり開いたりという、色々微妙な動き方をする。音程と声質は、この声帯の状態の変化による。

それにしても、声帯自体は、いかにもどう鍛えようにもない、ただの二枚の粘膜質なものである。長い短い、厚ぼったい薄い、と個人差はあるが、人によって身長や体重のような明確なほどの差があるわけではない。

つまり、使いようを知るしかない器官である。

 

声の豊かさは、どちらかといえば声帯より頭骨の形で差がつく。

頭骨が大きく、鼻が大きく、口が大きいと高い確率で豊かな声になる。

 

良い声を出すには、顎と首と肩の力を抜く。

そして、呼気吸気を楽曲に適応的に行う。

呼吸では胸式と腹式を正しく行う。

正しい姿勢と柔軟な胸部、腹部が望まれる。

そして、歌う場合、呼吸はリズムの流れに沿う。

 

共鳴は、主に鼻と口、喉を含む首とに起こる。高い声では頭部も。

低い声は、胸と首。

しかし、多かれ少なかれ、常にこれらの部分全体が振動している。

 

頭部や首は、声帯廻りにもっとも負担のない角度に動かされる。

頭骨の中心に共鳴座があって、そこが常に広く保たれるように、周囲の器官を動かしながら調整する。

 

これだけのことを説明するのに、平均して数ヶ月かかる。

最も難しいのは、自分の身体を部分に分けて感知すること。

スポーツをしているとか、踊りをしているという場合は、自分の身体を部分に分けて感じることが比較的容易だ。

それにしても、歌の場合、演奏とは違って目には見えない器官ばかりを使うため、指導は発声する以前の、自分の身体内部のイメージを掴むことから始まる。

 

初期には機械的な運動に馴れること。それが進むと、身体イメージはさらに細かくなり、リズムやテンポに従う息の吸い方、吐くための通し方、音程や強弱に伴う力点の移動や部分の広げ方、ニュアンスのための重心の吊り方、などなど、微分といっても良いほどの使い方が提示される。

 

多くの場合は、頭の中に作り上げたイメージだけで歌ってしまうため、感情の動きと身体の状態が直接連動してしまい、興奮しすぎのために喉を締め、肩に力を入れる、という身体のまま歌ってしまう。

これをほぐすのが、最初の仕事だ。

 

楽に自分らしい声を出せるようになると、表情まで変わってくる。

だって、声は、自分を表現する最初のものだから。

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