kyokotada: 2010年12月アーカイブ

読書好き

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本ばかり読んでいる。
一時、近視乱視に加えて、老眼が現れ、活字を読むのが辛い時期があった。
それで、映画や舞台を見るための近視用、活字を読むための遠視用とふたつの眼鏡を作り、何とかインプットの質を保とうとしたのだ。
それが、また、裸眼でも結構読めるようになっている。
多分、近視が更に進んだため、視力の遠近が、危ういながらバランス状態にあるからと思われる。

村上春樹という作家がいる。
デビュー作から、ずっと読んでいる。
小説は大体全部、そして翻訳も結構読んだ。
ひとつの国で、このようにジャンル丸ごとに対する影響力というか、革新性をもつ人が現れるのは大変なことだ。
インタヴュー集を読み、内田樹の批評本というか愛好論も読んだ。

昔、国分寺のピーターキャットに何度か行って顔を見ている。
髪の短い人だな、アイビーが好きなのだな、と感じた覚えがある。
ピアニスト北政則氏は、この店でアルバイトをしていたそうだ。
その頃、私の夫は北さんを頼って岩手から上京し、上野から国分寺に来て、この店で待ち合わせた。
そこから東京生活が始まったそうだ。

私は、そんなことを知らないまま、書店で印象深い表紙に惹かれて「風の歌を聴け」を買い求め、大変驚いて喜び、その後ずっと読者である。

一時期、精神的にひどく参ったとき、彼の本が読めなくなって、全部友人の息子にあげてしまった。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のピンクの箱入り初版本もあげてしまった。
ちょっと惜しい気もする。

その後、自分の息子が成長して彼の小説を読み始めるなどと、その時は予想できなかった。
つまり、それほどしんどかったということ。

イギリスにビートルズがいたように、アメリカにマイケル・ジャクソンがいたように、今の日本には村上春樹がいるのである。
日本に生まれたけれど、そして日本語の小説を書いているけれど、世界に影響力がある存在。

枕元に青山ブックセンターで買いだめした様々な本を積み上げて、夜な夜な読んでいる。
北山修、佐藤亜紀、中沢新一、川田順三、若桑みどり...。

パトリシア・コーンウェルの新刊は、3日で読了。ケイ・スカーペッタのしんどいことは相変わらず。切羽詰まる人の話を読んで、共感するのは何故なのか?

するする読める人と読めない人がいる。
文体がダメとか、リズムがダメとか、内容が嫌いとか。

本ばかり読んでいる、と我ながら思う。
音楽ばかり聴いているときもあるので、まあ、時によるけれど。

つまり、一人遊びが多い。
こういう人は、外的世界より、内的世界が好きなのだそうだ。
自分が好きと言うことではない。
自分が好きな人は、自分を周囲に認めてもらう方が先なのだ。
一人遊びが好き、というのは、自分の心の中にしか興味がない、ということである。




 
30年ぶりに、パティ・オースティンを聴いた。
前回聴いたのは、クィンシー・ジョーンズの来日公演の時。たしか新宿厚生年金会館だったような。
ジェイムズ・イングラムも一緒だった。
日本では「愛のコリーダ」がヒットした頃。

 パティを知ったのは、大学のゼミ。ニューヨークに留学している先輩が、いちばんホットなのはパティである、と教えてくれた。間もなく日本でもデビュー盤が出た。以来、聴き続けて30数年。その歌のうまさは、個性とか味とかいう表現など必要ない。歌手にとっては、真実お手本になる存在だ。

今回は、2キーボードの5ピースバンドにコーラスが3人。
とにかく、アレンジが素晴らしい。バンドも素晴らしい。
とくに、ドラムとベースのタイトなグルーブとバランスは近年の白眉。
ギターとキーボードは、振り分けが素晴らしく、音の被りや濁りがこれほど少ないのは徹底したリハーサルを経てきたためだろう。
こういうバンドを維持するのは、日本ではとても難しい。
どれほどの集客力があれば、可能なのだろうか。
コンスタントでなくても、レコーディングとツアーができて、赤字にならない採算ベースは、どのくらいなのだろう。

パティは、コマーシャルすぎずマニアックすぎず、ヒット曲もありながら玄人受けもする、という希有な存在感をもつ歌手だ。4歳からプロだったというから、ある意味の天才肌。でも、ステージでは、ユーモアに溢れ、とてもリラックスしている。MCの声はハスキーだが、歌い始めると鳴り響く。ピッチもリズムもダイナミクスも、何もかもが理想的。

ほんと、聴いて良かった。
そして、何だか安心した。
歌うことって、ここまで素敵なのだ。

子どもの頃のクリスマスは、大興奮だった。
若い頃のクリスマスは、稼ぎ時だった。
家庭を持ってからは、子どもたちを喜ばせる日だった。
そして現在。
クリスマスは何でもない日になりつつある。
プレゼントもしない。
ご馳走も食べない。
みんなに、クリスマスはライブとか忙しいんですか、と訊かれるが、全然何もしない。
それより、25日の支払日の方が大切である。

その昔、クリスマスは魅力的な行事だった。
プレゼントも、肉一杯のご馳走も、音楽も、クリスマスツリーも。
きれいだし、ワクワクするし。
そして今は、やっぱり自分はキリスト教信者ではないなぁ、ってことが自覚されてきたのだ。
クリスマスツリーよりも、京都に行きたい。
知恩院に行かないと、工事で見られなくなる、と焦っている。
しかし、キリスト教でも仏教でも、美しいものは美しく、そして教えは尊いのだ。
いずれにも真実があり、頼りがいもあるのだ。
いっそ、両方の信仰を持つ、ということにしてはいかがだろうか。
それは、神様の国ではいけないことなのだろうか。
そもそも、神様のいる宗教といない宗教がある。
神様がいても、神話とか物語があるだけで、彼らに絶対的に帰依しなくてはならないものでもないらしい。仏教の場合は、好きな坊さんを選ぶ感じなのでしょうか。人気投票のようである。

そしてクリスマス。
気分だけでも味わうために、ケーキを買うことにした。
年末には、蕎麦を食べ、正月にはお雑煮を食べる。
つまり、何かあるときは、それにまつわる何かを食べる、ということが大切なのだ。
これだけは譲れないのだ。

ミッドタウンのイルミネーション

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ここ数日、背中が凝っていた。胃腸が動かない感じ、というか。疲れているのか、眠たくもあった。だが、眠いというのは、素敵なことである。眠れない、食べられない、というのは、身体と心にとっての危険信号だ。
ほどよい疲労感で、「眠た〜い」という状態が好きである。
この頃は、コンスタントに自分の習慣をこなすことにしている。
自分のための書き物、ピアノと歌の練習、楽譜書き。
この他に、生徒のレッスンと、打合せやライティングなどの仕事をするのでかなりたくさんのことを凝縮してやっている。
だから、普通に疲れて、とろりと眠くなる。
少し寝て、再び取りかかることもある。
神経が疲れないのは、しているのが面白いことばかりだからと思う。
かつてと異なり、時間に追われることもなく、締め切り地獄もない。
つまり、マイペースを保てる環境になってきた。
喜ばしい。

様々な人の制作の姿勢や方法を見聞きして、自分なりのペースを編み出せたと思う。
日々、少しの量ながら、コンスタントに長く続ける。

いつの間にか、成果が積み上がっていく。
その間に、酷く自分を嫌いにならなければ、何かができあがるかも知れない。

今興味があるのは、何かができあがっていく過程の味わい。
「さくさく」、とか、「しんしん」とか、音が聞こえる気がする。
そして、ちょっとずつ気持ちが良い。





クリエイティヴな仕事、とは何だろう。
無から何かを作り出すこと、を指すのだろうか。
「無」なんてあるのだろうか。

音楽、文学、そしてデザインを平均に眺めながら仕事を進める。
それぞれに専門家がいるので、そのコラボレーションを見ながら、自分の中に湧き上がるフィット感や違和感を見ている。

各自の中に、主張やイメージがある。
それが表に出たときに初めて、コラボレーションとして認識される。
全体像を見ながら、調整する。

私の仕事は、CD制作ならばプロデューサーというものなので、この場合は、資金繰りから全体の仕上がりに関しての責任を果たす。こちらはソーシャルな側面。

一方で、ごく私的な作曲、作詞、文章書き、歌う、といった活動がある。
こちらとなると、何かを生み出せるか否かは偶然に負うところが大きい。
出るか出ないか、自分ですら分からないのである。

ただし、良いものが生み出せるか否かは、どれほどたくさんの回数、あるいは時間を それに注いでいるかにかかっている。
たまにしか手をつけないもので、突如として傑作が産み出されると言うことは、万が一にもない。
良いものを作る人は、職人にしても、そればかりしているものだ。

自分を振り返っても、責任者として全体を眺めて調整しながら、常に自分のクリエイト野の側にもフィード・バックしている。当然、逆の流れもある。

時々、自分をつまらなく感じることがあり、そういう場合は、クリエイターを見に出かける。
コンサート、展覧会、講演会、書店、そしてテレビも。

要するに、視点の持ち方、考え方に於ける創造性。
それに加えて、職人的なしつこいばかりの制作態度。
しかしながら、しつこさの果てにある、程良いところで切り上げる潔さ。

それを人生賭けてやってきて、自分を取るに足らない存在でしかないと感じるとしたら、そちらは精神医学的あるいは心理学的問題だと思われる。

つまり、知恵を絞ってやるだけやっても自分が信じられないなんてことは、健康であれば起こりようがないはずなのだ。
作り出している「物」に対する懐疑はあったとしても、自身に対して懐疑するのはほどほどにした方がよい。何かができないとき、それをすることに意味があるか無いかの逡巡をしていたら、それは対象に対する懐疑ではなく、自身に対する懐疑でしかない。
昨日、家を出た途端「あーら、多田ちゃん」と呼び止められた。
かつて、私の住んでいる地域で盛大な夏祭りの事務局をやったことがある。その頃主力となって働いたおばちゃま仲間で「茗荷の会」というのを作っており、そのなかのひとりと出会ったのである。

しばらく立ち話をして別れると、次には「跡地の会」の仲間と会った。これは、団地内の小学校が統廃合で廃校になるときに、跡地の利用に関して勉強会を設け、市に要望書を出した時の仲間。彼女のご主人は釣り名人で、しばしばでっかいお魚を頂いている。

またね、と言って別れた後に会ったのは、以前私が指導するコーラスに参加してくださっていた女性。大きな荷物を持っているので、お嬢さんの応援かな、と訊いてみた。というのも、そのお嬢さんは女子サッカー日本代表なでしこのメンバーであり、現在アメリカのリーグにいるからなのだ。お母さん本人もテニスの選手で日本女子連の審判などをされている。昨日は、テニスの方の用だとか。

出勤時間を少し早くしたせいか、色々な方たちに出会った。

そして今日は、さらに早く家を出た。
はじめに、「跡地の会」の別メンバー、一級建築士でどう見ても年齢より15歳は若く見える友人が自転車から声をかけてくれた。彼女は最近、ご自宅を夢のように美しくリフォームした。
ドウダンツツジがきれいな跡地横の歩道を歩いていると、次々に通りかかる方たちが「おはようございます」と声をかけてくれる。跡地の校庭では、沢山の人がラジオ体操。知った顔がたくさん。

近くのマックでコーヒーを飲みながら、「今日はいつもと別の道を通ってみよう」と思いつく。
いつもと違う道を通る。
知らないことに出会えるかも知れない。

街道沿いに残る畑で、ブロッコリーが食べ頃に太っている。

幼稚園の前から、新青梅街道の歩道橋に上った。
田無タワーを越えて、遠くまで良く見える。
幼稚園の園庭が、きれいな芝生であることに感銘を受ける。
子育てに関係する設備はどんどん整備されている。
私が子育てした頃とは、段違いの便利さ、快適さ。

今年の冬は暖かいようだ。
まだ薄いコートでも間に合っている。

家を出てから、たくさんの人たちに、何度も「おはようございます」と言える私の人生は、ちょっと素敵じゃないでしょうか。

IMG_0180.jpg これが、新青梅街道沿いで日夜太っているブロッコリー。葉っぱの緑がきれいだ!!



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