音楽: 2011年4月アーカイブ

本日は、2曲目。
「皇帝」  加藤崇之 作曲

加藤によると、「この曲ではビートルズをやりたかった」ということである。
文中最後の活字が大きいのは、なぜか、操作が反映されないためで、意図してではありません。
しかし、何となくいい感じかも...。
 

2.皇帝

 

皇帝は堂々としている。

太い腹と、白くてたっぷりとしたひげ。

頬はバラ色で、まつげが長い。

髪の毛は少ないが、たっぷりとしたブロンドのかつらがある。かつらにはいつも薔薇の香りの香水。

真珠の光沢を放つシルクのブラウスには、同じ真珠色の細い糸で綿密な刺繍が施されている。図柄は、王家の紋章である、鋭い眼を持つ鷹。

ブラウスの上には、白貂の縁取りが付いた深紅のビロードのローヴ。

左手には背丈の長さの杓を持つ。

もちろん、その頭の部分には金色に輝く鷹がとまっている。

 

皇帝は慈悲深い。

子供が生まれると、その子の将来のためにリンゴの苗木と山羊が一頭振る舞われる。

子沢山の家では、山羊の飼料に困って、時にこっそり売ってしまったりするのだが...。

 

皇帝は愛情深い。

結婚する若者達には、白いレースの布を一巻き、新しい食卓に相応しい銀の食器を二人分、贈呈される。

たいていの家庭では、白いレースも銀の食器も、新婚さんたちが年老いるまでには隣の国の質屋にすっかり売り払われてしまうのだが...。

 

皇帝は音楽好き。

周辺の国々で名を馳せる名音楽家たちを、三顧の礼で呼び寄せては宮廷で音楽会を開く。何と言っても盛り上がるのは、皇帝が自作の曲を演奏なさる時。廷臣たちは我先に耳栓を、そっと彼らの耳に忍ばせる。

有名な音楽家たちは、他の音楽家たちの噂話で聞き及んだ、その世にも不思議な音楽を聞くためにしかと心の準備をするのだった。

さて、皇帝は招かれた音楽家の演奏をひとしきり誉め讃えてから前に進み、厳かにご自分の楽器を肩に掛ける。

「えれきぎた」と呼ばれるその楽器は、遠く亜米利加の地から特別に取り寄せた珍品である。

皇帝の後ろには「ましゃる」と書かれたプレートを輝かせた、大きくて黒い箱がある。いくつかの小さなつまみ。皇帝の「えれきぎた」から伸びた黒い紐が、その「ましゃる」の小さい穴に差し込まれる。

皇帝が目配せすると、三人の小姓たちは一斉にハンドルを回し始める。

ぐるぐるぐるぐる。

ハンドルのついた箱からも、「ましゃる」に伸びる紐が見える。

突如として、宮廷中に、かつて聴いたこともない轟音が鳴り響く。

皇帝の左手の指は、楽器に張られた糸の上をめまぐるしく動き回る。

右手は、それらの弦を弾き続ける。時には叩く。

著名な音楽家たちは青ざめる。

雷か地鳴りか、それとも瀕死の馬のいななきか。

皇帝は、バラ色の頬をさらに紅潮させて楽器を奏で続け、天にも昇る快感に、これ以上はないというご機嫌至極、比べるものとてない法悦の次元へと、一気になだれ込むのであった。
私の企画ユニット、ZoolooZは、音楽的には素晴らしいが全く営業能力が無く、CDの在庫を見ながらどうしたもんかと考えた挙げ句、こんな物でも作ればなんぼか意味があるか、と。

メンバーのオリジナル曲のタイトルと雰囲気を私なりにストーリー化。
1曲分ずつアップします。
暇つぶしに読んで下さい。

本日の曲 ZoolooZing は、ベースの多田文信 作曲
ストーリーのネタは
ロック   半端に不良   駆動への憧れ 


ZoolooZ 01 Eleven Stories


1. ZoolooZing


 「将来が心配だ」とか、「何を考えているんだか分からない」というのが母親の口癖だ。もちろん、もれなく、この私に対して為される言挙げな訳だが...。

 

 柳に風と受け流すのが私の流儀だ。しかし、私にもふたつほど耳があるので、無視を決め込んでも頭横の穴から音声が入り込み、悪いことに意味も意図も人並み以上に理解できてしまうがために、決して愉快ではない。

 

 子どもの頃から不思議だったが、母親は彼女の脳みそと私の脳みそが別物であることが「信じられない」らしい。母親がその微妙な設定の脳みそで心配するあらゆる視点、または発想、あるいはポイント...は、たいていの場合、私にとって古びたロックンロールみたいな代物だ。

 母親が思い詰めたよう顔つきになり、決意したかのように、「ちょっと話がある」と呟く時、私は、ひなたぼっこして眠気と油断の極に漂うさなか、通りすがりの悪ガキから突然の足蹴りをお見舞いされた猫、のような気分になる。来たか、ママズ・ロケンロール。

 恐らく、母親の体の中には、息子や夫が、ひとり良い気分になっていることを察知して警報を鳴り響かせ、苛立ちというエネルギーをせっせと供給する装置がセットされているのだ。

 一連の起承転結には幼少の頃から慣れ親しんではいる。慣れ親しんではいるが、長いこと好きにはなれなかった。だからと言って、受け身さながらに攻撃をかわそうとすると、次には攻撃を真っ向から受けて立たないことに対する悲鳴混じりの非難へと場面が展開するのだ。だから、いつしか、闘うよりも折り合いをつけることを考えた。

 

「そんなだからお前はいつまで経っても一人前になれないんだ、バイクみたいな幼稚な遊びにうつつを抜かして、いつ帰ってくるんだか分からない何の得にもならないツーリングだか何だかに行って、帰ってきてもどこに行って何してきたか話すわけでもなく平然と部屋に引っ込んで、風呂入ったり、ご飯だけは食べるくせに、一体そのご飯を作っているのは誰なんだ、風呂掃除しているのは誰なんだ、申し訳ないとは思わないのか、心配かけているとは思わないのか、私はいつもお前が帰ってくるまで生きた心地がしないというのに、お父さんに相談してもうるさそうに放っておけと言うだけだし、一体私は何のために生きているのよ、こんなひどい扱いをさせるためにお前を生んで、苦労して育ててきたわけなの、あぁ、ばかばかしい、生まれて来なきゃ良かったわ、結婚もしなきゃ良かった、何よりあんたなんか生まなきゃ良かったわ、毎日私を苦しめているだけなのに、知らん顔して平然と暮らして、それで心が痛まないないのおぉぉぉ、ああ理解できない、本当に私の子なんだろうか、ああ情けない、もうお願いだから、どっか行って、出て行きなさいよ、この親不孝者オォォォォ」

 

 静かに始まる小言は、いつしかクレッシェンドして泣き喚きとなり、最後に私の部屋のドアが、空気を揺るがさんばかりに勢いよく閉じられる。階段を下りながら慟哭している。凄まじいエネルギーだ。

 母親の叱責は、じつは彼女の欲求不満の表明なのだ、と私は受け取っている。具体的に言えば、この私が、せっかく大学と大学院を出たにも拘わらず、就職したかと思うと会社を辞め、次に勤めた会社も辞め、次第に就活すらしなくなり、それでもいつの間にかどこからかお金を工面して来ては、やたらでかいバイクなんかを購入し、さらにそれを改造して、いずこともいつまでとも報告しないままふらりと旅に出、すっきりと楽しそうな顔で戻って来るのが気に入らないだけなのだ。そこには、お父さんがけちだから、新婚旅行から一回も温泉すら行けていない母親自身の人生に対する不満とか悲しみとかが、ご飯にかけ過ぎたふりかけみたいに、色とりどりにてんこ盛りになっている。単調な塩辛さ。3コードのみの不幸。

 さて、母親の不幸とは何だろう。

 不本意な場所にじっと留まって、その自分の在り方を嘆くことだろうか。

 それは残酷なようだが、彼女の身の丈なんではなかろうか。

 それ以上の不幸になると、こいつはほんとにホントの不幸になってしまう。

 ここに、立ち止まって、安全に、ただ嘆くことが仕事だ。

 私は、少なくとも、嘆かないようにすることを自分の仕事にしている。

 バイクを走らせている間中、私の脳みそにロックが響いている。前に進め、前に進め、行く手に私の居場所がある。

 転がりながら、ロックを響かせながら、いつだって私は、人生の次の扉を開けようとしている。ロックにも色々な取り組み方があるんだ、みたいな?



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