読んだ本: 2010年9月アーカイブ

  ごく幼い頃、家庭用のポータブルテープレコーダーで遊んだ。父は、新しい物好きで、家には昭和29年には既にテレビがあり、続いてステレオセット、8mmカメラと映写機、そしてオープンリールのテープレコーダー等が加わった。

 そのテープレコーダーに、母が「暮らしの手帖」に連載されていた童話(挿絵は藤城清治さん)を朗読し吹き込んで、3人の子どもたちは、夜それを聴きながら眠りにつくという、素晴らしい情操教育が企画された。

 この慣例はどのくらい続いたのだったろう。半年くらいだろうか。このようなアイディアの大方は、予測したよりずっと早く飽きられ、中止になるものだ。その後、テープレコーダーは私達兄弟の格好の玩具となったわけだが...。

 テープレコーダーが面白いと感じられるのは、自分たちの声が変わって聞こえるからだった。何より、普通に話して吹き込んだ声を早回ししてみるのが、最も興奮する遊び方だった。

 そして、その頃大流行したのが、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」。私達は何度も、テープにこの曲を歌って録音しては、速回しして聞いた。みんなで笑い転げた。

 

 のっぽ2人とちび1人のフォーク・クルセダーズ。のっぽのひとりは京都府立医大に在籍していた。ふざけた歌を歌う人が秀才であることは、ふざけるだけが関の山という、私たちみんなの自尊心をくすぐった。

 その秀才が北山修である。

 彼は、精神科医となり、ただ臨床に明け暮れるだけではなく、学会発表をし、論文を書く学際的臨床医となった。

 

反復強迫

 私は、大学以来、心理学と精神医学の勉強を細々続けてきた。しかし、系統立てて学ぶ方法を軽く撫でさすった程度で、心からその世界にのめり込んだことはない。ただ、興味が消えないので止めずに続けている、といったところ。

 それでも、書架に並ぶ心理学関係の本はかなりの量になる。量に比して、私はよい読者でも学習者でもない。理解の程には、ひどく自信がないのである。

 ところが、北山修という、一時期にせよ、プロとして音楽をやっていたことのある精神科医、しかも、年齢が近い学者の本を手にしてみて、ひとつの大きな発見をした。

 

 それは、あたかも小説を読むように、あるいはエッセイを読むように専門書を読むことが可能かも知れない、という目覚めだった。

 反復強迫という伝で言えば、私は、人間の生きる現実の外に、学問の世界があると思っていたらしい。らしいというのは、それが明確には意識されていなかったからで、今回、本書を読みながら初めて、自覚できないほど自然に、そう思っていたことに気づかされたのだ。

 どうやら私の劣等コンプレックスは、形而上学というものの存在を、純粋で究極的な思考の果てにある夾雑物のない結晶のようなもの、とばかりに祭り上げていたようだ。その上、私ごときに理解されるものは、それまでのことでしかないとばかりに、理解したことは端から格下げしてしまうという、まるで子どもの恋愛のような本読みであったのだ。

 

 若い頃、学問との付き合い方に難儀したのは、そういう、強烈なまでの超自我を掴んで見ていたせいであった。

 私が師事した教授たちはいずれも秀才の誉れ高く、田舎の学生が、どのような文化環境から上京しているのかを、ほとんど理解できない様子だった。劣等生が困っているのは、意欲のある無しのみならず、生まれ育った環境の、文化度の低さであることに気づく想像力を持てなかったかも知れない。

 

 北山修は、私が理解していた「反復強迫」の概念を、それとは全く様相を異にする物語を差し出しながら説明していた。その一説を読んだとき、目の奥で何かが光った。煌めいた、と言っても良い。瞬間私は、これまでの人生の間ずっと、理論や概念を理解するとやっかいなことになると戦きながら、どこかで自分を停止させてきた「何か」を見た気がしたのだ。

 それに気づかされた時、私は、自分が理論や概念の理解に、必ず難儀を感じていたことそれ自体が、私自身の反復強迫の表れであることを理解したのだった。

 それは、この本のタイトル通り、私にとって「劇的」な出来事だった。

 

 理論を構築し、世間を慨嘆させる学者の書物。その売り文句に圧倒され、押し頂いて読んでいる限り、いつまで経っても意味など分かりはしない。

 難儀することを有り難がっているだけの、暇な読書となってしまう。

 

 書物は、どれも、どれほど高尚であろうが、所詮人間が考えだしたことを書いてあるものだ。入口を捜し出せばどこかからするりと内側に入り込むことができるはずなのだ。その入り口を発見できない裏には、時に、抑圧とか否認とかがあるかも知れない。

 

 役者が脚本を読みこなすときのように、著者の心なり思考なりに入り込んで、共時的に存在しながら読み進める時、その学者がかくも膨大な紙数を費やして届けようとしたアイディアの息吹を感じることができるはずだ。

 

 まずは、自分の外の現実を、憧れを含むもの全てに於いて、必要以上に難解だと考えないこと。

 心構えをそこに置いて、再び書物を手に取る。

 今までは、どうしても熱が動き出さなかった、フェアバーン辺りから読み直してみるとしようか。

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