桜散る

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都知事選だった。
周囲では、石原では怖い、という人が多かった。
この期に及んで、原発擁護だから、という理由。
誰に投票するかとても悩んだ。
石原以外の誰かだった。
私の中では、都民の危機感は高く、投票率も上がるだろうと期待もあった。
その全ては、呆気なく裏切られ、8時3分くらいには、石原候補当選確定であった。

世の中の在り方は、観る人によって全く異なるのだ。

原発は、近くに住む人を多数知っているから、私にとってはひどく身近だが、同じ都民でも、野菜の汚染度しか気にならない人だっている。

自分を中心とした同心円が「私」だとすると、私は、生身のたくさんの知り合いに感情移入する。茨城の知り合い、千葉の知り合い、福島の、宮城の岩手の山形の知り合い。
そして、彼らの無事を願い、都民としての自分の立場を考え、下手すると棄民となりそうな東北地方全体を案じる。

汚染されたほうれん草すら、もういい年なので、買ってあげたい気持ちになる。
良く洗って、食べてあげたい気持ちになる。
なぜなら、今まで彼らの危険に無知なまま、お洒落な生活とやらを標榜していたのだ。

自分なりに、自立していると、あるいは、より自覚的に一個人たろうとしたつもりだったけれど、こうなると、自然も国家も政治も、まるで私なんぞの手の届かないところにある、別次元のものだったという気がしてくる。

しかし、冷静に考えれば、多分、現場の人々も同じ気持ちなのだ。
自然相手に仕事をする人々も、政治家も、経済人も、頑張れば、頑張りさえすれば、上手くハンドリングできそうな気になっていたこの世の仕組みが、じつは不確定要素で満ちていたということに、今更ながら気づく。
安定と見えた物はいつも、奇跡のような偶然の積み重ねの上に成り立っていた。

安定しているかに見える物事は、必然的に経年劣化やエントロピーの増大を孕む。
それが、ひとつのバランスを欠いたことで、一斉に噴き出し、暴れる。

世界の有り様は、誰のせいでもなく、ましてや自分のせいでもなく。
ただ、現在只今の世界は、そのようにある、ということ。
地球上のあらゆる物事は、死と再生を繰り返すものだということ

だから今生の、生きる力を失わないことだけ、それだけが大切なのだ。

お約束の、8階から見た山桜。ゴージャス。
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このページは、kyokotadaが2011年4月11日 10:37に書いたブログ記事です。

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