戦中派の凄味

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震災の後の様々なニュースを見ながら、ふと、世代のことを考えた。
震災から復興する、という大命題を抱える日本を励まそうとするとき、「あの第二次世界大戦の廃墟から立ち上がった」ことが引き合いに出される。
それはある意味で、嘘ではない。
人類史上、最初で最後の二発の原爆を落とされ、空襲にまみれ、さんざんな犠牲を払った末の全面降伏。下手すると国が喪失してもおかしくない事態だった。
けれど、その後の日本は、合衆国に次ぐGNPをたたき出すまでに「復興」した。もちろん、同盟国あるいは子分国として育て上げようとした合衆国の力は偉大だったのだが、この国の側ではその時、一体誰がこの快挙を成し遂げたのだろうか。

日頃、お世話になっている、昭和十五年生まれの先輩たちがいる。
ご縁は、私が歌の指導をしたことによるが、彼らこそ、戦後の日本の復興を身を以て果たしてきた世代なのだ。
諸先輩は、就職してから退職する時まで、毎年成長を続ける企業の最前線で営業マンを続けた方たちである。
私の親の世代よりは若いが、戦中を経験しているという点で、大変似た面を持っている。

私の父は、大学生だった頃東京で暮らしていた。
日々、大空襲を逃げまどい、戦場掃除に駆り出されて遺体の処理をし、卒倒するほどの飢餓を体験し、卒業後は東京から北海道まで各駅停車の、しかもつま立ちしてしか乗れないほどの満員の列車で帰ってきた。
口癖は、「真暗闇でも身支度ができるようにして寝なさい」とか、「飢えると人間は理性を失うものだ、これほど凶暴な存在はない」とか。
つまるところ、危機管理についての述懐が多かった。そしてその働きようと言えば、奇跡の体力と精神力。休日は勉強とボランティアに明け暮れ、実質ほとんど休まない人だった。
父は、大正15年、つまり昭和元年の生まれだ。

そして、昭和15年生まれの先輩たち。
父の世代が、幾分ロマンチストであったのに較べると、こちらは超現実主義。実務、実践に素晴らしく優れている。
集合するのもご飯を食べるのもものすごく速い。決められた時刻の15分前には全員が揃っている。
仲間内で、瞬く間に役割分担が決定し、素速く機能する。
責任ある立場で超多忙な場合でも、半日の隙間を作ってでも、その仲間との会合に馳せ参じる。
私たちの世代には、とても無理というスケジュールを平然とこなす。
遊ぶ、騒ぐ、飲む。
その全てに於いて、全くかなわない。エネルギーの総量が大きいのだ。

良く聞くと、皆さん持病を抱えていたり、苦労を抱えていたりするのだが、そんなことは当たり前でしょう、という程の強さがある。
私たちのように、それを肴にしてくだくだ言わない。

戦後を復興させた方たちのような野性味やパワーは、残念なことに私たちにも若者にもないような気がする。
戦後には大いなる苦労があったとしても、日々、戦時中よりは豊かになって行った。
つまりは希望に向かって進んでいたのだ。
それと較べると、私たちは飽和状態にまで膨らんだ供給の中で飽食し、他人との細かい差異に拘り、あまりの情報量に対して窒息する代わりに草食系などになってみたのだ。
自然を知らない。飢えを知らない。不足を知らない。
つまり、素の人間を知らない。
与えられたものに対しての不満だけは言う。
けれど、無から立ち上がった経験はない。

そこを、しっかり解っていなくてはならない。
私たちは、戦後に立ち上がった人たちとは、出来が違うということを。
体力、気力の全てに於いて、訓練されていないということを。

避難所で、互いの不幸を気遣い、日々の暮らしを工夫して、時には人生を豪快に笑い飛ばしているのは、戦中派のお年寄りたちだ。
若い人々が、初めて体験する今の状況に深く傷つくことを、傷ついた果てに被る様々なことについて、少しは戦中派の凄味を知る私たちが、心の用意をしておかなくてはならないと感じている。

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このページは、kyokotadaが2011年4月14日 10:16に書いたブログ記事です。

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