世界は停まらない

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久し振りに友だちと会うと、それなりに突き進んでいたりする。
私だけが動いていて、見えない部分は停まっているかのように感じるのだが、じつは、全員進んでいる。
進む、という感覚は、時間が彼方に流れてゆく、という気持ちから出てくるらしいが。
実際、世界は停まらない。

昨日は、打楽器奏者・石若駿君の芸大合格祝いの会で、焼き肉を食べてからその近くにあるライブハウスに行き、お客がいないのを良いことに、セッションして遊んだ。
駿君は、ピアノも弾く。
それがやはり、しっかりクラシックをやっているひとの弾き方で、感心した。
もう、彼の時代には、ジャズらしくとかクラシックらしくとかは無くなり、それぞれの中に互いの良い部分が溶け込むのかも知れない。

ヴィトウスは、ジャズの人は音色を美しくする訓練を、クラシックの人は即興の訓練をもっとやるべきだ、と言ったそうである。

音楽は、ひとりにひとつずつある。
その人以外にはその音楽はない。
技術とか、センスとか、趣味とか、好みとか...。
つまりその人を形作り、現れるものと隠れているものの全てが、音の中にある。

駿君は、一見地味に見えるのだ。
それは、上京して勉強を一生懸命やっている学生なのだから当たり前なのだが、本人は気になるらしい。私も同じことを気にした時期があった。いわゆる、ジャズ・ミュージシャンらしさとか、ジャズ歌手らしさとか。
ヴィジュアルにそれが無いことがデメリットであるかのような批評。
けれど、派手な衣裳を着ても、髪の毛を金髪にしてみても、それは擬態で、ただ自己暗示の材料にしかならない。中味が薄いとか、勉強が足りない、という自覚は、どんな時もしっかりと自分の中にある。それを外見なんかで誤魔化そうとしたってそうはいかないのだ。

一見地味であることで見くびる人は多いけれど、そのままその先入観を抱き続ける人もいれば、最初の印象は違っていたと言ってくれる人もある。
つまり、見た目の印象で全ての判断を終える人と、話を聞こうとしてくれる人とがいるということ。
それはこちらの守備範囲を超えたことだ。

どこまで行っても、自分の話だけする人と、相手に興味を抱いて聞き出そうとする人。
自分の知っている範囲が全世界だと思う人と、自分の外側に広大な未知の世界があるはずだと考える人。
そしてそれにかけるエネルギーの量がまた、千差万別と来ている。

「人」の存在は、だから、周囲の果てのないカオスの中で激しく揺れながら保たれている。
あたかも、波打つ時間に翻弄される、万華鏡の模様のように。

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このページは、kyokotadaが2011年5月15日 16:17に書いたブログ記事です。

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