予感とか直感というもの

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いつからなのかははっきり言えないが、私には直感みたいなものがある。
たとえば、自分の体や子どもたちの体のこと。
どんな食べ物が体によいのか、何となく分かって、上等なものというよりは、適切なものを食べてきた。
子どもたちは好き嫌いがほとんど無い。
長女は蕎麦アレルギーが少しあるが、彼女の呼吸器に関しては、大失敗をした。
呼吸器と皮膚は同じ細胞から分裂する。
乳児の頃、皮膚に発疹があったのをうまくやり過ごそうとしたのだが、私の両親が心配してステロイドを塗ってしまった。発疹はきれいに消えたけれど、その後数年間小児ぜんそくがひどかった。
後づけで考えたことだが、あのステロイドがなかったら、ぜんそくは回避できたのではないか、と後悔している。

体のことは、野口晴哉先生の起こした整体協会からも学んでいる。
だから、肩揉みとか、指圧みたいなことをすると、習っていないのに、上手にできる。
薬は大体別の部分が疲弊するのが分かるのでなるべく避け、自分でする活元運動というのと、部分を温めることで経過させる。
疲労が滞ったときは整体協会の佐々木先生の国立の道場に行って整えてもらう。
先生は、私と誕生日が同じで、ピアノも弾くから、色々な話しもできる。

料理は大好き。
最近は忙しくてあまりできない。
でも、ぬかみそを漬けている。
食べるものは、パンとかハムとか少しずつ、決まった店で買う。
他は、生協のもの。
お酒が飲めないので、暴飲暴食もしない。

職場まで、お天気がひどいときと、体調不良の時以外は歩く。
25分かかるので、往復歩くとまあまあの運動。
その他にも、都内に出たり、町中の用事でも歩く。
自転車は、3年くらい前に止めた。
自転車があることを前提にして移動範囲を決めると、スケジュールを入れすぎることに気がついたから。もちろん、地域の仕事をしようとすれば自転車ほど便利なものはないけれど、私は地域活動向きではないと思い知ったので...。

こういう生活の中で、色々なことに対して「人間にとっての適量」とか「安全っぽい」ことを察知してきた。
私や家族の限界を超えているでしょ、と直感されることは諦めるのだ。
向上心がないということではない。
子どもたちは、ちょっと心配なくらい頑張りやさんばかり。
言ってみれば、不適切なことはしない、みたいこと。
たとえば、できもしない職業に憧れるとか、不要な華やかさ、スタイルなんかを求めるようなこと。

いつも、江戸時代の人の暮らし方を思った。
稼いだおあしでその日の食い扶持を賄い、年取れば子どもに頼り、早めに死ぬ。
私にはこれが理想だ。
短いサイクルの循環を可能にする社会だと、もっといいな、と思う。
つい数十年前まで、飢饉が来ればひとたまりもなく飢えて死んだのだから、その頃の方が良かったとは言わないけれど。
今は、いつまで生きちゃうんだろうか、というのが人生の大問題だったりする。
それまで、何とかこの生活レベルを維持しないと、というのが恐怖だったりする。

この不安は、成長し続けるのが正しいとする、今までの社会の方向が作り出した脅しだ。
脅したってダメよ、と知らん顔をしなくては、と思う。

人間は長い間、貧乏なまま生きて死んだ。
それが普通だと思うと、市場に出現する様々な強迫や過剰が、ヘンなことに見えてくる。
私は豊かな家庭に育ったため、家族同様貧乏を怖れまくった。
怖れて竦んだ末、ついに追いつかれちゃった。
でも人生は、そこから突然面白くなった。
つまり、破滅するかも知れないという怖れの予感は、実際にそこに至った途端、生き延びる方への直感に場所を譲ったのだ。
私はそこからやっと自分になった。
もう、闘って倒れてもいいやという気持ちになった。
闘いの中味で勝負しようという、希望が持てるようになったのだ。


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このページは、kyokotadaが2011年6月13日 11:28に書いたブログ記事です。

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