気が楽になった、明日は誕生日だ

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この頃、気が楽なのだ。
実家が壊滅し、地震で色々大変なことがあったら、不思議と自分は楽になっている。
不謹慎だろうか。
理由は多分、世間の危機感が私の危機感に近づいたからだ。

親や家族からそれ相応の扱いを受けている人には分からない、辛い日々があった。
私が黒人の音楽を好きなのは、公民権運動を学んだからではないか、と考えたりした。
フェミニズムも臨床心理学同じ理由で、必然があって学んだ。
私は、差別されているという言葉を使いたくなかったけれど、実際はそうだったようなのだ。
だから、普通にその意識を持たない人たちと話すときは、そのレベルまで自分の緊張や怒りを解く努力をして、様子を窺いながら、不穏な発言をしないように、自分の舌に細心の注意を払っていた。

それが、現在は、世の中が大分不穏なので、自分の意識をコントロールする量をかなり減らすことが出来ている。
たくさんの人が、生死について考えたり、汚染を心配したりする中で、少し、自分の緊張が解ける。

心理の先生が言っていた。
「失業して鬱になった人は、自分と同年齢の人たちが定年になる頃から寛解し始める例がある」
そんな感じ。

そもそも心理学は、第1次世界大戦の戦争神経症の治療から飛躍的に発展している。
各々の日常の深い落差。
今もアメリカでは帰還兵のノイローゼが大きな社会問題だ。
命懸けで暮らした経験は、ぬるい日常の中では、自分に対して凶器を向けてしまう。

心の中の緊張とか、切迫とか、危機感は、表に出たときに他人を途惑わせる。
怒ったり、怒鳴ったり、皮肉を言ったりする人の理由を丁寧に察する人は多くない。
だから、それを知って、長く、自分の緊張を解除するよう気をつけていたのだ。
振り返ると、いつも大変な精神力を伴う作業をしていたみたいだ。

このところ、その作業をする機会が減ってきた。
私は、市井のごく普通の経営者で、それなりにえげつなく、時には強欲で、利己的だ。
そういう、時には顔をしかめたくなる自分でありたいと、半ば夢見ている。
他の人を心の中で糾弾したくなくなったから。
私の生き延び方は、それなりに普通なんだよね。

ただし、一方で、私はある種の精神的種族だという自負もある。
理想は薄く持っている。
あくまでも、それに拘泥しない程度に。

明日は56回目の誕生日で、大好きな吉祥寺でバースディー・ライブをやる。
いつになく楽しみだ。
好きな歌を存分に歌ってしまおう。
そしてまた、今年も何とか生き延びていたことに感謝する。
ハッピー・バースデイー、自分。

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このページは、kyokotadaが2011年9月13日 12:15に書いたブログ記事です。

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