一番嬉しいのは、だれかの喜ぶ顔を見たとき。
感動したり、楽しんだり、満足した顔を見たとき。
私が料理をするのも、歌を歌ったり、教えたりするのも、企画を考えるのも、どれも、だれかが喜ぶ顔を見たいから。
子どもたちが小さかったとき、変身グッズみたいなおもちゃを欲しがった。
プラスティックやビニールでできた、ピンクや金色のコンパクトみたいなもの。
電池を入れて、スイッチを押すと電飾がきらきらする。
近所にあった「赤ちゃん本舗」に行けば、そこで手軽に買えるのだ。
でも、私にはそれが素敵なものには思えなかった。
確かに、一時、本物のヒロインになったみたいな気分になって、変身した気分になって楽しいのかも知れない。
でも、そのおもちゃの手触りは、安っぽくて冷たい。
おまけに、見れば結構いい値段。
私は工作用紙や折り紙を買って来て、手作りで王冠と杓とコンパクトを作った。
金色銀色の紙を貼り、娘たちのサイズに合わせて。
それを装着して、首にスカーフをなびかせた記念撮影。
紙で作ったものなのに、それらは大切にされていつまでも残っていた。
大きくなってから、ふと、「あれが一番好きなおもちゃだった」と娘が言った。
それは、私にとって、とてもとても嬉しい出来事だった。
若い頃は、だれかを喜ばせる一方で、私を喜ばせてくれる人が少ない気がして淋しかった。
子育て中は誰だってそんなものだけれど。
もしかすると私は人が良すぎるのかな、といつも反省した。
人はだれかを喜ばせることに一生懸命な人と、自分を喜ばせてくれる人をつかまえるのに一生懸命な人に分かれる。
でも、この年齢になると、人を喜ばせる余裕なんて、全ての人にあるもんじゃない、という現実も分かってくる。現実は厳しい。
私がだれかの喜ぶ顔を見るために、時には損をしてでも頑張っちゃうのは、今まで気づかないうちに喜ばせてもらった記憶のお陰だと思う。だれからとだれから、なんて名指しができないほどたくさんの人たちから。
たぶん、いつかどこかで喜ばせてもらった分を倍返ししないと、きっと、気持ちが落ち着かないのだ。
「倍返し」って、いいね。
今思いついたよ。
感動したり、楽しんだり、満足した顔を見たとき。
私が料理をするのも、歌を歌ったり、教えたりするのも、企画を考えるのも、どれも、だれかが喜ぶ顔を見たいから。
子どもたちが小さかったとき、変身グッズみたいなおもちゃを欲しがった。
プラスティックやビニールでできた、ピンクや金色のコンパクトみたいなもの。
電池を入れて、スイッチを押すと電飾がきらきらする。
近所にあった「赤ちゃん本舗」に行けば、そこで手軽に買えるのだ。
でも、私にはそれが素敵なものには思えなかった。
確かに、一時、本物のヒロインになったみたいな気分になって、変身した気分になって楽しいのかも知れない。
でも、そのおもちゃの手触りは、安っぽくて冷たい。
おまけに、見れば結構いい値段。
私は工作用紙や折り紙を買って来て、手作りで王冠と杓とコンパクトを作った。
金色銀色の紙を貼り、娘たちのサイズに合わせて。
それを装着して、首にスカーフをなびかせた記念撮影。
紙で作ったものなのに、それらは大切にされていつまでも残っていた。
大きくなってから、ふと、「あれが一番好きなおもちゃだった」と娘が言った。
それは、私にとって、とてもとても嬉しい出来事だった。
若い頃は、だれかを喜ばせる一方で、私を喜ばせてくれる人が少ない気がして淋しかった。
子育て中は誰だってそんなものだけれど。
もしかすると私は人が良すぎるのかな、といつも反省した。
人はだれかを喜ばせることに一生懸命な人と、自分を喜ばせてくれる人をつかまえるのに一生懸命な人に分かれる。
でも、この年齢になると、人を喜ばせる余裕なんて、全ての人にあるもんじゃない、という現実も分かってくる。現実は厳しい。
私がだれかの喜ぶ顔を見るために、時には損をしてでも頑張っちゃうのは、今まで気づかないうちに喜ばせてもらった記憶のお陰だと思う。だれからとだれから、なんて名指しができないほどたくさんの人たちから。
たぶん、いつかどこかで喜ばせてもらった分を倍返ししないと、きっと、気持ちが落ち着かないのだ。
「倍返し」って、いいね。
今思いついたよ。
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