kyokotada: 2011年8月アーカイブ

10月2日 日曜日、第1日目のジャズ・ヴォ・カフェをやります。
アクセスの利便を考えて、場所は吉祥寺駅北口から徒歩3分のThe Foxhole。
通称「ジャズ・ヴォ・カフェ」。
ジャズ・ヴォーカルの同好会的、駆け込み寺的、学習会のようなものを考えている。
常日頃、レッスンをしていると、あれこれたくさんの事柄を教えなくてはならないことに気づいた。
つまり、音楽全般のこと。
歴史とか、ジャンルとか、技術的なこととか。
そういうことをまとめて話しながら、困っていることの相談に乗ったり、セミナーやライブの企画を実現したりする。

そもそもの発案は、自分の年齢に思い至ったためである。
私も数年の内に還暦を迎えると気づいて、今のうちに蓄積したあれこれを伝えておかないと、と思い立ったのである。
教えるのは体力勝負だし。
思えば、これまで音楽の様々な体験、経験、学習を続けてきた。
それがヴォーカリストになりたいとか、歌を教えられる人になりたいとかいう方たちの力になるかもしれない、と考えた次第。
私のみならず、他にもたくさん素晴らしい先生たちがいらっしゃるが、私にはそれなりにユニークな面もあろうかと、勝手にお役に立つ気でいる。

ジャズだけでなく、普通にヴォーカリストを目指す方には、ボイトレでお役に立てるかも知れない。
何しろ、せっかく勉強したものをこんなにいっぱい持ったまま終わるのは惜しいという気持ちなのだ。
なので、ぜひお仲間になって下さい。
ジャズと歌が好きな類友の会「ジャズ・ヴォ・カフェ」です。

アンサンブル

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育児のために長く歌を休んでいて、久し振りに戻ってきたら、昔新人同士だった仲間はみんなヴェテランになっていて、「付き合っていただく」感じになっていた。
ライブなどしてみると、力量の差は歴然で、こりゃ死ぬまで三下だわい、と覚悟した。
自分の好きで現場を離れ、3人も子どもを育て上げたんだから贅沢は言えない。
人生はダブルでは生きられない。

現場に戻った最初の頃に痛感したのは、意識が自立していない、ということだった。
自立的に演奏できない。
ミュージシャンからも
「自分のペースで歌えてない」
と感想を言われた。

「自分のベースって何だろう」
そのことの意味をいつも考えた。
もちろん、声の出方やリズムの乗り方など、現役の時からするとひどく勘が鈍っていたし、それが自信のなさに繋がっていたこともある。
けれど、主体的に演奏する、というのはまた違った次元のことだった。

主婦で母親で、という立場で生活していると、ひたすら「譲る、遠慮する、へりくだる」必要があった。自分の我を出さず、周囲の利益のために貢献する。
主婦で母親であり、その立場で日常を暮らすとなると、日常の構えだけでなく、精神性までもが主にそういう「気遣い」あるいは「わきまえ方」をすることと同一なっていた。
相手が話すのを待つ。
相手がしたいことを察する。
相手が楽になるように立ち回る。
それを演奏の中でもしてしまう。
聴いてしまう。
配慮して全てが遅れる。
対等にならない。

私の構えは違うのではないか、と感じ始めた。
良かれと思ってすることは、さほど良い結果を導かないかも知れない。
つまり、配慮、調和へのアプローチという働きの難しさ。
してもらう側からすると、配慮は美しい。
けれど、一方だけが配慮していると、場が死んでくる。
活き活きしない。
つまり、一方的な配慮はバランスを欠く。
やがて恨み辛みなども沸き出す。

人ははじめに、怖れず自分の都合を精一杯出すべきかも知れない。
表現する、という意味でだが。
それを出し合って後に、話し合いが始まる。
愛があれば、やがて互いの美意識が収まるところを得る。
アンサンブルとは大方、そういうことの積み重ねだ、という気がする。

レイモンド・チャンドラーの名前は、もう何十年も前から知っていた。けれども、意地のように読んでいなかった。ハードボイルドというのが嫌だった。ハードボイルド推しのおっさんたちがダメだった。作家の人たちもダメだった。ダメ、というのは受け付けない、という意味ですが。

けれども、村上春樹の訳なら読んでみるか、という気になり、休日2日間で読了。
とても面白かった。
ハードボイルドといってもさほど暴力的でないし、それよりは、スタイリッシュな会話に唸らされる。
アメリカ人が、みんなあんなに気の利いた話し方をしているとは到底思えないけれど、小説の中や映画の中では、台詞、やたらとかっこいいのである。

この美学が、日本にもっとあって良いかな。
この頃は特に、ゆるゆるのふざけた文体ばかりが多いのだ。
もちろん、それが芸になっていることも分かるのだが。
「当方には、アカデミック・コンプレックスとか階級コンプレックスは無い」
というキモチを感じ取っておくれと言わんばかりの軽口にしか見えないときは、結構失望する。

そうそう、ハードボイルドだった。
久しくフェミニズムに寄り添っていたので、男らしい、という定義が嫌だった。
すぐ殴ったり、脅かしたりするのも嫌だった。
けれど、最近は、男はそうするものだ、と幾分思う。
男同士では、そういう、表面的なブン殴り合いというものがある、と分かる。
女同士には、別の意味でのブン殴り合いがある。

話は変わるが、休みの日に、1990年代くらいの娯楽映画を何気なく見ていた。
2作見たら、その物語の構造が同じだったので驚いた。
悪いお母さん→息子犯罪者→ヒロインはそれと気づかず熱心な性的関係を結ぶ→ヒロイン気づく→愛した記憶との葛藤にもめげず犯罪者を成敗。
これがなんなのか。
全く同じ因果関係で、背景だけ変わっている。
主演女優はそれぞれ、シャロン・ストーンとアンジェリーナ・ジョリー。

臨床心理学関係では、プロファイリングと多重人格と隠蔽記憶と模造記憶などなどが一時大流行で、弁護士大活躍であった。
アメリカ人は、暴力性の因果関係づくりに熱心である。
原因全てを外在化したいのか?

そこで「Long Good Bye」の感想。
ここでの犯人は、超美形の女性である。
背景には戦争によって愛する人を失ったというトラウマがある。
ハードボイルドでは、女性は殺される被害者か、犯人か、傷心のまま消えていくやや美女か、である。
男性は、そういう女性たちに翻弄されつつもタフに生き延び、男性同士で互いに暖かく心を通わせているのであった。
下半身は女に翻弄されるが、頭や心はすっかり男性同士のためにある。
やはり、ハードボイルドを読むと、女性としてはバカにされたような気になる。
女性の真実の良さというものは、ほとんど出てこない。
生死に関わる問題を山積させ、疲労困憊のヒーローにさらなる性的サービスをねだるのがここでの「女」というものである。
それも素敵だが...。
そういう女になりたいと望む女はいるのだろうか。
フィリップ・マーロウになりすましている男は五万といそうだがね。

つまり、ハードボイルドは、残念な感じで生きている男たちの問題の外在化と、なりすましロールモデルの宝庫、ということになってしまうのだが...。
それでも私は男の人たちが好きだな。
そういう、単純なところが。
暑いです。
本日が最高らしい。
北国生まれは、東京に出てきて数年間、夏は湿疹と熱中症との闘いでした。
それでも、エアコンのない部屋で昼まで寝ていた根性は素晴らしかった。

その夏もそろそろ終わりに近づいていると信じたい今日この頃、ふと気づくとこの先色々ライブが決まっております。

今月は、8/28日曜日、午後2時からといういかにも半端な時間帯に吉祥寺The Foxholeで、加藤崇之(G)、金澤英明(B)とのライブ。
この2名は、もしかすると数十年ぶりの再会かも。
大昔、みんな同じ駆け出しだった頃友だちだった。
それぞれ、自分の個性に従って突き進んだので、同じジャズ界にいて、しかもビッグネームでも、共演の機会がなかった。
今回は、私がボンドになってめでたく再会、共演ということ。

察するに、私はダシにされて、ふたりが思い切り遊ぶだろうという気がする。

同じ日の夜7時半から、田無のスタジオトライブで、石井彰ソロピアノコンサート。
これは、私のプロデュースレーベル、スタジオトライブレコーズからリリースしたアルバム「a」のレコ発。

9月14日水曜日は、恒例のバースディー・ライブ。
吉祥寺MANDA-LA2で。
ピアノの北正則、サックスの松風鉱一、ギター加藤崇之、ベース多田文信、ドラム宮崎まさひろ。
豪華だ。
北さんが還暦になるので、共同のバースディー・ライブは今年限り。
聴き逃さないよう、どうぞよろしくお願いします。

10月以降はざっとご紹介。

10/7 金曜日 沼袋オルガンジャズ倶楽部  with オーガニック・ジャズトリオ
10/15 土曜日 上野アリエス マイク黒宮さんのセットにゲスト出演 
10/22 土曜日 ラルゴボーカル教室第7回発表会 スタジオトライブで
10/31 月曜日 水道橋 東京倶楽部 生徒さん3名とボーカルナイトに出演
11/15 火曜日 国立 ハーパーライト ピアノ続木徹、ベース金澤英明

とりあえず、今のところ決まっているスケジュールです。
詳しくは、追々、ホームページのニュースでご覧下さい。
 
よろしくお願いします!!!

「悪童日記」を読んだのはいつのことだったのだろうか。
その時のショックは、何にも例えることが出来ない。
フラナリー・オコナーを読んだとき、内田百閒を読んだ時にも似たような心持ちになったけれど、ショック度合いという意味では、ダントツだ。

人が家族を失うということ、故国を失うということ、国と故郷と家族と、そういう属性を全て失ったときに、どうやって生きるのか、生きていけるのかを深く考えた。

それは、その頃の自分の立場を考えたり、そこから先に進む方法を考えたりするための役に立った。
大いに。

田舎で、周囲の人々から何らかの認知をされていた自分が、ある日から突然「どこの馬の骨」という目でしか見られない存在になるという体験は、欧州の戦乱や人種差別、宗教差別の生死を分ける状況とは比べようもないとは言え、それなりに文学的だったのだ。

自分は、何をする誰なのか。

リセットされるというのは、苛酷な体験だ。

そして、私は今日まで穴に落ちないよう、怪我をしないよう、慎重にしかし時には博打を打ちながら生き延びてきた。
まさに、生き延びてきた。

人生の中で意義のあることをしたとか、後世に残ることをしたとかいうのは目的ではなく結果だ。
人はただ、一心に生き延びたいだけだ。
そして、気づくと歳を取っている。

その加齢に免じて少しは休ませてもらえると思うだけで、生きてきた甲斐があったと思える。

私の周囲の男性たちはあまりにも早く、病を得たり心朽ちたために若死にした。
その数を、私は指を折って数えることができる。
女はみんな生き延びている。
生き物としての自分の重さを秤る時の女の潔さ。

アゴタ・クリストフは、「人間」と「女」のただそれだけになった時の姿を書いてくれていた。
文名が上がるにつれ、彼女のような苛酷な人生を糧とする人々がこれほど多いということが分かり、それも私の励みになった。
少しは孤独が慰められた。

亡くなったと知ったとき、私の人生が文学に大いに救われていることを、改めて思ったのだ。

私の好きなもの

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ミュージカルSound Of Musicの中の「My Favorite Things」みたいに自分の好きなものを列挙する。
これ、深く考えないでやってみると、意外に自分を外から見ることになるのよ。

それを今、やってみようという...。

インドの服
トマトソース
植え込みの小さい花
水まき
大胆な絵本
短い小説
古本屋
深い声の歌手
大きい河の畔
夏の海辺
閑かでひんやりした森
小川のきらきら
マリンバ
酸っぱいもの
文房具店
自然食すぎないカフェ
乗り合いバス
だらしない人
花柄の磁器
イタリアの埃
シンプルな額縁
冷たいもの
無口な女性
早技(はやわざ)
レース
柔らかい毛布
遊んでいる子ども

今日のところはこれくらい。

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