kyokotada: 2011年7月アーカイブ

身体を使うこと

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暑くなってからずっと、節電と身体のためにエアコン無しで寝ていた。
首タオルが湿るほど汗をかいて。
それが、台風の後、突然肌寒いくらい涼しくなって、その2日程の間、体調がひどく悪くなった。
頭痛がして、目の疲れが痛いほどに自覚されて、身体がバラバラ。
各部分が別々に冷えて、痛く、辛い。

初夏から本格的な夏に向かって、徐々に汗をかく身体になって行く。
だから、暑くなり始めから1週間くらい、じっと我慢で汗を出すと、やがて相当暑くても体温調節が上手くできるようになる。
けれど、今回のように一挙に10数度も気温が下がると、身体は強ばって固まってしまう。
こういう体験をすると、日々の身体の使い方や、精進を工夫することは、全く無駄などではなく、機嫌良く生活する上での基本なのだと実感される。

先週の金曜日、伊東豊雄さんの土曜教室番外編、中沢新一先生のお話2回目に出かけた。
今回のお話は、心をラカン的モジュールにした図から始まった。
モジュール中心に位置するメビウス状の部分に存するものと、表面に向かって存するものの、階層的な質の違い。
中心には言語化すらされていない情動そのものがあり、そこから表面に向かうに従って理論化、言語化が推進される、というお話。
中心は、言うなれば芸術的カオスとエネルギーの場だ。
外周に至っては、人間社会のうちでも極端に感情を排したもの、例えば法律文などとなる。
そして、中心から直に出てくるものの代表は音楽なのだそうだ。

中心からダイレクトに出るものの割合が多いほど、芸術としては力がある。
この話を聞いて、これまで長い間考えてきた、様々な演奏スタイルや音楽の捉え方の個人差、好みの差が何によるかについての、解答のひとつだと思えた。

演奏を、中心からダイレクトに出せるようになるまでには、長年にわたる経験が必要だ。
この時の状態は、ちょうど、瞑想が極まる感じに近い。
それは記憶とか思考を伴わず、身体の真ん中にある音を、楽器を介して外に出す、という行為だ。
これが素直に実現すると、気持ちが良い。多分、聴いている側も気持ちが良い。

これは何より、身体の出来次第なのだ。
身体が只今理想的状態に入ったか、あるいはどこかに滞りありか、または全然動いていないか、などが、嫌と言うほど感知される。
ただ、身体を使っている、と感じているうちはまだ理想にはほど遠くて、身体など無くて、ただ、中心の魂だけがある、という状態になる時がベストだ。

歌うという行為に取り組みながら、メロディや歌詞を思い出そうともしない。
音楽的な効果を計ることもなく、とても冷静で、けれど熱狂している、みたいな。
その循環が、強度を違えて波のように起こる。

そのような状態で歌うと、全然疲れない。
循環している。
増殖している。
代謝している。

身体は何でも知っていて、逆に、心はそこから教えられる。
身体を鍛えて、何らかの技量に到ったとき、幾分の自信が確実につく。
頭で考えている時は、何の自覚もできないが、動かした途端、身体に関しては確信が持てるのだ。
レッスンの時、生徒に示唆すること。
多岐にわたって、アドバイスすること。
自分の中ではしっかりラベリングされている。
あたかも、頭の中に色のついた引き出しがあるかのよう。
生徒に
「どうすれば、今のサジェスチョンを自分で発見できるのでしょうか」
と訊かれた。
「私の人生をもう一度生きる他ないのでは」
と答えた。
気障すぎるかな。
でもその時、生徒にはフレージングというか、メロディの成り立ちを理解して、それにどうアプローチするかという話をしていた。
どうしてそこまで解説するかと言えば、そこまでやって良い、と確信したからなのだ。
ジャズのヴォーカルは、即興と個性が売り物だから、深い旋律理解は必要ないのかも、と考えた頃もあった。けれど、原曲の強さを知らずして、何の即興か。
確信するまでには、チェロの斉藤先生、言うまでもなく「サイトウキネン・オーケストラ」の斉藤秀雄先生の講義録を読んだ時の衝撃があった。
先生が広島でされた演奏指導の内容をまとめたもの。
その微に入り細にわたる解説と解釈と逡巡。
それを読んでから、バイオリンのヴェンヴェーロフが開いた公開レッスンの映像などを見て、そうか、ここまでやって良いんだ、と目が醒めた。
自分の教えたい方法が、クラシックとそう違っていないこと。
ジャズではなおさらそこまでやって良い、いややるべきだ、という確信。
クラシックの長大な曲と比べるとずっと尺の短い楽曲で、それをやらない手はない。

生徒と話しながら、この一連の確認時間を思い出していた。

ジャズ・ボーカルを教える他の講師たちが何をどう教えているかは知らない。
私はただ、自分の蓄積から思いつく限りのアイディアを振り向けてレッスンするだけ。
その中には、ジャズだけでなく、オペラを含むクラシック、コーラス、邦楽、さまざまなポピュラー音楽の知識がある。
少し弾ける、楽器数種の経験がある。
ボイストレーニングは、様々な機会を捉えて海外講師のレクチャーを受けに行く。
音声学の耳鼻科の先生とも話す。
武道の身体の使い方などを興味深く見る。
臨床心理学で、対人関係や人格について学ぶ。
只今は、英文翻訳のトレーニングを受けている。
ピアノでジャズコードを学んでいる。

これらの蓄積の下で、その時に必要と感じられるひとつのサジェスチョンが出る。

幼少時から、音楽と本に耽溺した。
しかし、人生は極度なほど負荷が多かった。
もう少し環境が違っていれば、より成果があっただろうとは思う。
けれど、成功の道を上って行くより、足下を深く掘り下げることで、自分に対する「納得」を得られる人生の方が私には向いていた。
それは、つくづくそう思う。

レッスンの間、私は、自分の中から次々と沸き出してくるアイディアに喜びを感じている。
私は、本当によく学んで、よく運用できている。
それが、何にも替えがたい喜びなのだ。

バランス感覚

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バランス感覚と書いてみて「以前にも同じタイトルあるかも」と思った。
バランスって好きな言葉なのだ。
自然体とか適度とかいう感じ。

中学生の時、なんと無謀にも体操部におり、平均台演技に取り組んでいた。
もちろん、台の上で飛んだり跳ねたりは無理。
前転とか、つま先でくるりと回る、という程度の技しかしなかったが、上がった最初は、足下でなく前方に視線を定めて歩くだけでも怖かった。
次第にコツを掴むと、背骨が真っ直ぐ縦に感じられると良いと分かって来る。
片足で立って反対側の脚を上げるバランスの時には、頭の先から軸足の裏まで真っ直ぐな支柱になったかのように感じる。

この感覚が、歌の時に役立っている。
最も良いポジションは、背骨があるとき。
背筋が動くとき。

真っ直ぐな支柱の周囲には、支えるに足る筋力が要る。
歌の場合、内部の筋肉がこの働きをする。
上手い歌手ほど楽そうに見える。
パフォーマンスとして動いていそうでも、発声に限っては力んでいない。
内部だけで、しっかりとポジションを作っている。

外側で力むと即座に喉を壊す。
外側が力むと、内側にエネルギーが向くため、声帯にもストレスがかかるようだ。
声帯自体は意外にタフで、正しく使う限り、なかなか壊れない。
もちろん、野外ツアーの連続というスーパーシンガーは、それなりに負荷が多いと思うが、通常のライブなら、かなり保つ。毎日でも大丈夫かも知れない。

全体のバランスを取ることで、特定の部位にかかる負荷を限りなく少なくすることができる。
ホメオスタシスの考え方。
そのバランスをどう作るか。

毎日、身体と発声のバランスを測る。
睡眠、食事、仕事の量、感情、リラックス、内部筋力の維持。
持久力をつけるには、ストレッサーの量を少しずつ増やし続ける方法が良い。
忍者のジャンプ練習みたいに。
ただし、私の年齢からは、増やすというより、できるだけ減らさないようにすること。

これからは、溜めに溜めた文化貯金を惜しみなく使って、面白い企画をしたい。
たくさんの仕事を経てきたけれど、最後はやっぱりジャズボーカルかな。
周囲を見渡すとどうやら、鑑賞ではなく、歌うという実践的な取り組みに関しては、私、結構詳しい方みたいなのだ。
ジャズの歴史、ボーカルの歴史、そして歌うことのノウハウ。
色々面白いことをみんなに知らせてあげたい。




Poetry Reading

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オリジナル曲を作って歌ってみるが、やはり、スタンダードにはぜんぜん叶わない。
曲の精度が問題にならない。
歌い手としての私にとって、楽曲の深みは、オリジナルよりは断然もっと難しいスタンダードが向いている。スタンダードとかエバーグリーンと呼ばれる曲は、世界的な勝ち残り組だからなぁ...。

歌うだけなら力量は、相当ある、と思っている。
特に、ジャズというジャンルに特徴的な即興性やアレンジ力。
淘汰されて残った曲は、極端なアレンジにも耐える。

オリジナル曲は、ライブの前に録音で精度を上げてみる、という方法がある。
アレンジをしっかりやってみてから再構築。

他に、自分の表現力を損なわないでオリジナリティを保つことのできるものとして、自作の詩、あるいは文章を朗読する、という方法がある。
文章を書く力量は、まあ、そこそこはあるとして。

先日、ZoolooZ 01収録曲である「望郷」につけた詩を、ライブで朗読してみた。
朗読自体はものすごく下手だったが、とても面白かった。
詩に関しては、他人の作品でなく、自作を読んでもいいようだ、と思った。
早速朗読を練習する気になっている。

歌はスタンダードで。
自作の発表は詩の朗読で。
チラシ、フライヤーには自作のイラスト。

「私が歌います、書きます、描きます」
という我我る日々。
暑い上に益々暑苦しい。
ご迷惑さまでございます。



ガガる

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弟子のひとりがニューヨークに勉強に行ってきます、というメールをくれたので、「ガガってきて下さい」と返事した。
ガガるというのは、話題のレディ・ガガ的に振る舞う、ということ。
ガガを我我と書く人もいる。
「わたしが 私が ワタシガ」という態度。

先日、伊東豊雄さん主催の中沢新一講演に行ったとき、最前列にロングヘアー白髪交じりをアップにして妙な簪を刺している不思議な方が座っていて、どこのお国の方かと訝っていたら、最後に質問に立ち、日本女性ながらニューヨーク大学で教えている彫刻家の方だということが分かった。
私は、3時間超の長い講演が終わって、「あー、腰が痛い、暑い、眠い...」とぼんやりしていたが、その彼女はご自分のプレゼン・ファイルを広げ、喋りすぎて貧血起きたと語る中沢せんせの前に立ちはだかり、喋りまくっていた。
すごい、ガガっている。

自分のやりたいことを実現するには、ガガる必要がある。
たまにでいい、とは思うが...。


濃ーーい週末

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金曜日、スタジオがレコーディングで使用できないため、フラフラと外出。
山梨から上京した友人に会いに吉祥寺に行ったついでに、土曜にライブをするthe foxholeに寄って、マスターとボーカル・セミナーの企画相談。
一旦会社に戻って業務連絡してから、六本木ミッドタウンの21-21デザインサイトで、横尾忠則さんの講演。真ん前の席には三宅一生さんが座っていらっしゃいました。

これが終わらないうちに急いで神谷町に移動して、建築家伊東豊雄さんの土曜スクール番外編、中沢新一さんによるこれからの建築に求められるものという、大変に中身の濃いお話。

土曜日、吉祥寺でライブ。相変わらず素晴らしい加藤さんのギター。
私は自作の詩を朗読して噛みまくり。
しかし、青木マスターが興奮して、日本にもこんなライブがあるのか、と喜んでくれました。来月は、同じライブハウスで、加藤崇之と金澤英明という、危険な人々と再び挑戦します。

日曜日は、さすがに少し休まないとと思って、ぼちぼち読書と料理。
すると夕方、ある人物からすごい企画の件で電話が来た。
実現したら結構話題になりそうな制作話。これはまだ秘密。

いろいろと濃い人々に触れたり出会ったり。
自分がエネルギー過剰タイプなので、そのような方々に出会うと、何となくホットする。
別に良いんだよね、日々中身が濃くーーても。
お答えしたがる癖の次は、なんでも自分ひとりでしようとする癖について。
自立ということを目指した、フェミニズムの時代というものが私の中にもあり、ほとんどのことは自分でやらねば、と思った。
経済的にも、子育ても、仕事も、悩みの解消も、「自己管理」あるいは「自己実現」という素晴らしい幻想の上で懸命にその顕現を追求していたわけだ。
そして今となると、「んなもの、あるわけないっしょ」である。
他の女性は、ただの推測に過ぎないが、夫に稼いでもらい、親に援助してもらい、子どもを甘やかし、自分をラクさせる、という閾値が私の3倍くらいはあるような気がする。
私は、自分で稼いで、親からは勘当され、子どもは世間の風に晒しまくり、自分はストイックという、坊さんのような人生である。
はたして、子どもたちは良く勉強してるし、麗しいほどに働いてるし、自分も好きなことをして満足しているので問題はないかのようだ。
だが、「甘える」とか、「ぺろっと舌を出す」とか、「嘘をついて振り回す」とかいうコケットが私には足りない。
それをしたい。
無い物ねだりは、願っているうちに次第に内在化され、私の元々の願望を成就させるはずだ。
もう、やるべき事はすべてしたし、後は寝て待てだ。

と、今日の午前中に考えていた。

私自身の癖として、誰かに何かを訊かれたら、正しい答えをしなくてはならないという強迫観念を抱いてしまい、しかもそこから逃れられなくなる、というものがある。

ということに先ほど気がついたわけだ。
しかし、じつのところそれは多々ある対応方法のひとつでしかないわけで、
他には、

難しい顔をして答えない
さあ、分からないと言う
聞こえなかったふりをする
ふざけた返答をする
ひねる
とぼける
外す
別の話題に飛ぶ

など、じつに様々な反応形が存在するのである。

なので、本日只今から、これら、楽しそうな反応形をクリエイトすべく、新たな一歩を踏み出すことにします。
パチパチバチ(自分に対する拍手)。

北山修さん

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北山修さんのコンサートに行きますか?とお電話をくれたのはエンジニア福島であった。
何と、北山さんのレコーディングを河口湖スタジオでやり、その流れで「きたやまおさむ」をググっていたら、私のブログの記事が見つかり、そうこうして電話と相成ったそうだ。

有り難いことである。
福島さんありがとう。

北山修さんは、詞を書いたり歌うときは、きたやまおさむである。
美しい白髪で、椰子の木模様の地味なアロハを着ていらした。
はしゃいでいらした。
心から楽しんで。

楽屋におじゃまして、私がブログに感想を書いた御著書「劇的な精神分析入門」にサインを頂いた。
ツーショット写真を撮った。
「あ、でも、ブログに上げないでね」
当然、肖像権の話かと思いきや
「患者さんたちに刺激強いから」
そうなのだ。
臨床家が気をつけたいことは幾つもある。

フォークは、私にとって青春の歌だ。
高校の友だちと組んでいたフォークグループでも、再会ごとに「あのすば」を歌い続けている。
北山さんは、終始本当に楽しそうで、歌い出すと楽しくて我を忘れる私と、そこは同じだった。

音楽をリビドー解放に使いながら、色々なことをし続けるという私の生き方。
北山さんにもそんな感じを持った。

今回は、4回目の解散コンサートだそうだけれど、今年は北山さんの好きなスワローズも調子が良いので、また、調子に乗って続けていただきたい。

そう、スワローズ。
私も20年以上応援しているのだ。
今年はちょっとすごいかもね。


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