日記: 2010年8月アーカイブ

連鎖


 井の頭公園に行った辺りから、何かの連鎖が始まっていて、あの日に読もうとして傍らに置いてしまった「悪党的思考」(中沢新一)を何ヶ月も経てしまった夕べ、やっと読み終えた。

 公園に行ったあの日は、何となくインドの服を買い、本の面白さよりも池に向かって身投げするように伸びた樹木の、官能的な佇まいに感心していたのだ。

 その後も、この本に向かう体力が生まれず、ずるずる他のものを読み連ねた。ミステリーや文芸小説なども読んだが、いまひとつ、やはり心底楽しむというわけにはいかず、それらは、私にとっては時間の無駄かも、と再認識したことだった。

 ただし、本を読み続けるという身振りの端緒は掴んだ気持ちがして、いつも寝床の脇に積み上げてある少々ほこりをかぶった本をまた下から引っ張り出して読んでみたりする。

 すると、突然のように、心の沿わなかった文体に、生身の人が語りかけてくるような親しみを覚えることもあり、彼や彼女たちが書きながら興奮に躍動しているのまで手に取るように感じられてくるのだ。

 読書の醍醐味は、文字を読むのではなく眼で追う最中、イメージがそれこそ3D映画のように広がる、文字と自分の細胞との同期=グルーブを楽しむことにこそある。

 

 振り返れば、現在に至るまでの長い年月をかけた読書の連鎖が、私という人間の外郭をくっきりとなぞっているようなイメージも沸く。

 

マトリックス


 それ=外郭=輪郭は、どうやら網の目のようなもので出来上がっているらしい。

ひとつの本を読んで、目を開かれ、自分の視野の届いていなかった領域に焦点が合うと、そこを起点として、網の目のような理解や連想がこちらに向かって広がり迫って来るのだ。

 井の頭公園以来のきっかけとなったひとつは、草木染めについて丁寧に書かれた小説「からくりからくさ」(梨木果歩)で、繊維や布といった領域の工芸について、改めてその奥行きと歴史を考えることになった。

 服といえば、私にとってそれらは長い間、育児や家事、デスクワークのための労働着でしかなく、機能だけ備わっていれば充分というものだった。それが、最近の一連の目覚めで、布は、美術品である、という恥ずかしいほどの原点に気づかされたのだ。従って、服は、時には纏うものなのである。祝祭や儀式に魂のこもった布が使われることの本来の意義に気がついた。

 

 最近、時々水彩を描いているので、自分が描こうとしている世界、あるいは方法についてどういうように広げていくべきかと考えたりする。そこに布を通して、模様とか装飾という、これまたものすごく奥行きのあるジャンルが立ち現れ、そういえば先日古書店で見つけた本があったな、と鶴岡真弓さんの「装飾」についての本を引っ張り出して眺めたりした。

 唐草や曼荼羅から連想して、ヒンズー教やラマ教、仏教などのことを思ううち、モザイク状に広がる世界観を保つヒンズーの思想と、大日如来を据えることによって陰陽のうちに閉じる日本の思想、そして三位一体を全ての基本に据えるキリスト教思想のそれぞれが孕む違いの明確さに驚いたりする。

 そんなことに連想を連ねながらぼんやりテレビを見ていると、チベットに巨大魚釣りに出かける秋田在住の青年が登場して2メートル以上ある淡水魚を釣って見せてくれた。おお、地球にはまだ驚愕する広大な自然があり、モティーフは無限なのだと思ったりした。

 

 さらに、いつか聴いたウズベキスタンの歌手のことを思い出し、それから、衛星放送20周年の番組でピーター・バラカンがワールドミュージックを紹介した中にパキスタンの伝説的な歌手、そして、ルーマニアのロマの女親分の歌があったことを思い出し、再び聴きたくなって録画を探し出した。

 

モザイク


 このような日々は、連想や思いつきがあちらに飛び、こちらに飛びと、ひどくとりとめがないようでいて、私の中では全ての要素がモザイクの一片ずつとなって、今のところの私全体を埋め尽くすピースとして体験されている。

 そして、この全体というものは、「音楽」という抽象的でしかない体験を、別の表現手段の中で齟齬無く繰り広げてみたい、という野心に裏付けられたものなのだ。

 音楽、とくに即興を含む音楽をやっていると、突然起こるテンション・ノート満載のハーモニーや、各々のプレイヤーのフィジカル特性が織りなすポリリズムの迷宮や、意図せず一体となってしまうときのグルーブが描き出す時間的歪みや、奇跡的なアンサンプルの予告無しの出現、延々続くリズムとインプロの中に埋もれていくようなトランスなどを体験することになる。

 ぼんやりしていては、あるいは感受性がプラスとマイナス、加えてニュートラルの何たるかを知らないでいては、絶対に起こりえないだろう、これら瞬間への感知=閃きとキャッチは、ある種の特殊能力とも言える。

 

 レコーデイングをしていて、欲しいスピード感が表れないとき、ひとつのパートを1/100秒ずらしただけで、くっきりとリズムが立ち上がってくるのを聴き取った時など、人のリズムに対する、あるいは音程に関する感受性のレベルは、1/100秒単位、1ヘルツ単位なのだと分かって、改めて驚嘆する。

 しかし、数字に置き換えたために、それこそ酷く微細な差のように感じるのだが、音楽をしている側からすると決して微細ではなく、はっきり認識できる明確なものだ。その差を聴けているかいないか、それが身体能力として備わっているか否かが演奏仲間を選ぶ際のスケールとなる。その程度が似通っていないと、なかなかアンサンブルできないからだ。

 モザイクは、大きさや精度など、いずれ何かの基準によってグループに分けられるのかも知れない。

 

タペストリー

 

 ところで、私の思うモザイクには、面積や体積はない。ただ、時間とか光のようなものでできているようだ。

 存在そのものを構成する、目には見えない繊維のようなエネルギーか、あるいはカオスのようなものがあって、その複雑に入り組んだ濃淡が織り成すものが部分として機能している。

 繊維の実体は生体エネルギーに似ているが、それには私に固有の追想とか思惟とかが、たくさん入っている。

 だから想いと共に、瞬間ごとに色彩が変わる。

 ひとつのフレーズに、あるいはひとつの色彩に、瞬時に寄り添い次の展開のために意識をニュートラルにする。隙間を作らないと、閃きが生まれないからだ。その瞬間の「はたらき」は、心でもなく意識でもなく身体でもなく、さらには技術や方法を超えたところに動く「何か」だ。

 その「何か」が織りなすものを集めて1回の演奏や1枚の絵とする。そうして織り上がったタペストリー的個体を、私はいつも「私」と呼んでいるのかも知れない。

曲作り

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 思いつく仕事を全部していて、それでもまだ、大切なことができていない気がする。

 瞬間毎に「これは違う!!」と気持ちが言う。

 今日などは、徹底していない自分が、本当に怠惰に感じられ、こんなことではいけないのだ、と、体操しながら思っていた。

 それでピアノを開けて、しばらく弾いたり鼻歌を歌ったりした。すると、色々できそうな気がする。曲も詞も。

 けれど、何かしっくり来ないものがあって、やりたくない。いつもそうなのだ。曲作りは私にとって、ものすごく「恥ずかしい」ことなのだ。

 曲作りが私小説を書くのに近いことだとは思わない。けれども、メロディを作り詞を乗せることが、どうしても恥ずかしい。このテレは一体何なのだろう。

 手すさびに、落書きみたいにして描く絵だとか、こういう雑文書きには、テレるという気持ちは起きないのに、曲作りだけはだめだ。作ってアレンジして録音してライブで歌う、そういう自分を考えただけで、心理的にどっと疲れる。

 私にとって、オリジナル・ソングとは何なのだろうか。

 ふと思いついたのは、「その曲で私を量られてしまったらどうしよう」という恐怖があることだ。私にとって、「曲」は、それほど重いものだ。選曲するとき、アレンジするとき、歌うとき、私は全身全霊をその曲に傾ける。それは、作る作業とは別の、リスペクトを含む作業だ。

 きっと、私はエディパルな人間なのだ。あるいは超自我的。

 素材を作り出すよりは、磨き上げるのを好む。

 その一方で、自分が作り出した素材が、量られるのが嫌い。

 ふ〜む。

 少し分かってきたぞ...。

 スタッフ鴨下嬢のデザイン部屋は、いつも玄関ドアを開け放している。

 毎日暑いのだが、クーラーに当たり続けると冷えるので、風を入れようとして開けているようだ。

 その部屋には、従って、ヤブ蚊が入る。

 ところが鴨下は、その部屋に何時間居ても、絶対血を吸われない。

 私はと言えば、その部屋に入るなり、蚊たちが「わっ」とばかりに寄ってきて、わずか数秒で数カ所刺される。

 

 今日は、ちょっと電話をしている間に、6カ所吸われた。

 近くの藪から出てくる、黒い色をしたヤブ蚊なのでひどく腫れる。

 刺されてすぐは、痛いほどだ。

 消毒薬が良く効くように思うので、噴射する。

 赤みは消えるが、皮膚が島のようにぼこっと出っ張っている。

 

 なぜ、蚊に吸われる人と、吸われない人があるのだろうか。

 香水をつけると、いっそう酷く刺されるような気がするが、何か関係はあるのだろうか。

 私が部屋に入ると、蚊たちは、旨そうな匂いにやられてしまうのかも知れない。それは、香水の匂いなのか、私の体臭なのか、よく分からない。

 そして、より不思議なことは、蚊にとって、不味くて吸いたくない血もあるらしいことである。

 吸われない鴨下はB型である。

 吸われすぎる私はO型である。

 ABO型と関係なく、体質か何かの理由で不味すぎる血があるとする。

 いったい、その血であることは、喜ばしいことなのだろうか。

 

 明日、鴨下に訊いてみよう。

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