フィクションを追い抜くとき

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津原泰水の「ブラバン」という小説を読んでいた。
先々週くらいから。
私より、9歳年下の作家だが、青春期に聴いた音楽の様々なレア話なども随所にあり、高校生の感情の行き来や、成長してからの再会とそれぞれの人生など、じつに上手く書き込まれていて、読み始めは感心していた。
それが、クライマックスであるはずの、終盤部分に来てから、冷めてしまった。

良い小説なのに、どうした?
そして思い当たったのが、「私の現実が、小説を追い越したのかも」という感覚だった。

3月にリリースした、中牟礼さんのトリビュートアルバムに付随する雑誌の取材。
ここでは、終戦後からの日本ジャズ界の貴重なエピソードをわんさと聞いたし、渡辺香津美さんという素晴らしい才能の持ち主が、師である中牟礼さんををどう感じているかについての話も聞けた。
中牟礼さんは、香津美さんの才能は、とっくに師を超えていると言うのだが、香津美さんの方は、中牟礼さんをヨーダに例えて、生徒一同は、中牟礼さんに献上して頷いて貰うために腕を磨いていると語る。師が存在ではなく機能だ、という証拠みたいなお話。

あるいは、渋谷のタワーレコードに営業に行き、ついでにアルバムのディレクターであるポンタさんのコーナーを覗くと、中牟礼さんのアルバムと並べて高中正義のDVDがあり、流れる映像には私のユニットでドラムを担当している宮崎まさひろが映っている。
後日本人に、「タワレコでDVD観たよ」と言うと、収録時のオフレコ話やゲストドラマーのポンタさんについての感想などを色々教えてくれた。

また別の日には、中牟礼さんのライブ会場で35年ぶりくらいにプロデューサーの笹路正徳に遭い、あちらは一目で私を思い出して「おお、内海」と。
若者を数人連れてきてくれていたので、「君たちはなんていうユニット」と訊くと、アクアタイムスという、武道館を満杯にする人たちだということが分かった。
20代の半ばに共演したジャズピアノを、飛び入り演奏で久し振りに聴き、笹路君が今回のアルバムに参加している小沼ようすけや香津美さんのアルバムをプロデュースした件や、スタジオの話などした。
若者たちもCDを買ってくれ、サインをねだっていたのが面白かった。

このように、小節より面白いかも知れない日々には、一時的にフィクションが色褪せたりする。
何だろうか、この毎日の素敵さ加減。
ちょっと興奮してしまう。

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このページは、kyokotadaが2012年4月 2日 14:30に書いたブログ記事です。

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