2012年4月アーカイブ

こだわったこと

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歌手を中断して子育てをしていた間、ライターの仕事をしていた。
発端は、近所の主婦ライターから手伝い要請があったことだった。
もともと本を読んだり、文章を書くのが好きで、高校では合唱部と文芸部とに所属していた。
文芸部で小説をいくつか書いた。
大学のゼミの教授が、私のレポートを読んで文筆家になれと言ってくれたこともある。

それで、バンド活動では作詞をやっていた。
そのうち音楽の教則本のテキストなどを書くようになった。
だから、雑誌の立ち上げで人手が足りないと誘われたとき、あまり抵抗なく手伝う気になった。

最初は健康雑誌、その伝手で色々な編集者と知り合い、月刊誌、週刊誌、ムック、書籍から新聞系まで、ジャンルも健康、旅行、美容、育児、園芸、料理、評論まで本当に色々なことをやった。

けれども、出版の世界は音楽以上にギャラを取り損なうチャンスに満ちていて、取材したり書いたり校正したり、時には編集したりの他に、もれなくギャラを獲得するための心構えも必要なのだった。

ある時、私が書いた本がすごく売れた。
当初、制作した編集プロダクションが示した割合はあちらの取り分が2割のはずだったのだが、気がつくとほとんど搾取されていた。
文句を言ったら、おじさんが出てきて、女性社長に頭を下げれば幾分かのパーセンテージを支払わないでもない、と言われた。
その頃、私はとても貧乏で、その数十万円が有ると無いとでは大違いだったのだが、何日か眠れないほど激怒して、結局頭を下げるのを止め、袂を分かった。

以後は、編集プロダクションと付き合うのを止め、版元と直にできる仕事に絞った。
そして、著書を出せるようになった。
やがてジャンルを音楽に絞った。
そして歌手にも復帰した。
その後も波瀾万丈で今日がある。

ライターと音楽家それぞれに10年ずつかけた。
本来、文章を書くのは自分を知るためで、それは、説得力のある歌を歌いたかったためだった。
若いときの薄っぺらく、上滑りな歌。
それに内容を加味するためには、自分の中味を豊かにするしかないと考えたからだ。
色々なカルチャーにアクセスし、本を読み、考え、試行錯誤した。
それを生活が困窮したときに仕事にし、しばらくしてやっと音楽に戻った。
戻っても良いと感じたのは、末っ子が中学生になった頃だ。
それから、浦島太郎の心境でジャズのライブを始め、色々トンチンカンな行動をしながら、今日まで来た。

その今日までの間、あの、頭を下げなかった件がすごく大きい。
頭を下げて、あの編集プロダクションに居続け、仕事を貰っていたら音楽に復帰していなかったかも知れない。
いつも、つまらない仕事に忙殺されてため息をつき、疲労ばかりが募っていたのではなかろうか。

あの時、じつは私は自分を残念に感じていたのだ。
そんなに負けず嫌いでどうするんだ、頭のひとつも下げられないなんて、大人じゃないよ。
プライドより現金だろ。

でも、今はその時の自分を愛おしく思う。
苦しんでもがいて、よりしんどい道を選んだ自分をいい人間だと思える。
その姿勢は、全く余裕なんかない、ギリギリの所で自分の中から沸いて出た形だった。

そのことが、誰によってもたらされたのか、何によってもたらされたのかは分からない。
でも、良かったなぁ、と思う。
頭下げたら、私の人生が汚れる、と思った若い日の自分を、良かったなぁ、と思う。

時間の流れ方

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昨年末から病気をしていて、約2ヶ月くらい、目が見えにくかったり疲れやすかったり、不自由していた。
その間、2ヶ月もボーッとしていたのだ。ほとんど、休養、静養優先で、ボチボチな感じだった。
3月から、また少しずつ様子見ながらの仕事復帰。
そして、うちの会社としては大きな仕事になった中牟礼さんのCD発売が3月14日。その後、リリース記念ライブ、取材数回、地方への帯同などなど、色々なことをした。その間には、日野さんゲストの生田さち子さんのピアノトリオのレコーディングと、プロモーションの打合せなどもあり、自分自身の仕事として、オペラの本のゲラ読みに、ボーカルのレッスンもしている。会社の仕事としてのブッキングや経理もする。
こう書くとすごく忙しそうだが、結構良く休んでいる気がする。

時間の感覚がすごく変だ。
休んでいたのは一瞬な感じがし、復帰してからは半年分くらい色々なことをした気がする。
けれど、気忙しい感じは皆無。

よく、夢は時間の感覚が編集されたり、圧縮されていると言われるが、日常がそんな感じ。

ミュージシャンって、演奏している時間は毎日の中の数時間だけれど、それが一日の中で最も濃い時間だ。だから、それ以外の時間と流れる速度が違っている。
1時間のステージなんて、一瞬で過ぎる。

原稿を書いているときも、時間は早く流れる。
ふと気づくと2時間3時間経っている。

昨日、家の掃除をした。
くたびれるほど作業しても、数十分だったりする。
料理も然り。
3品作っても1時間とか。

だから、土日続けて休むとすごく時間が余る。
だからといって、ちょいと絵を描くというわけには行かない。
絵を描くとなると、体力を確かめる。
気力体力充実していないときは止める。
だらだら描くとつまんないから。
そして、描き始めると、少なくとも気が済むまでに3時間くらいはかかる。

私の休日は、人と会わないためにあるかも知れない。
毎日たくさんの人と会うので、たまに会わないようにする。
すると、会うのが楽しみになってくる。
人に会わず、何もしないで退屈している時間に、期待とか憧れが静かに発酵してくるのだ。

休日はパソコンにも触らない。
そうすると、だんだん仕事がやりたくなる。

その挙げ句、独り言を言った。
「打ち込める趣味を持たないと」
自分を笑ってしまうほどの、欲張りだ。

居場所の問題

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ツィッターとFacebookと自分のブログがある。
ツィッターは、2種類。プライベートとジャズ・ボーカル同好会用。
そして、一番落ち着くのがブログ。
私の年代は、あまり携帯やスマホで面倒なことはしないらしく、人によってはメールより電話が多い人もあり、しかも、携帯でない人すらいる。イエデンってもの。
なので、ツィートしても、仲間があまりいない感じ。
というか、仕事のことやらうっかりツィートできない件が多く、その可否を考えるのも面倒であったりする。

ブログは、とても落ち着く。
考えながら、まとまりのあることをしっかり書く。
書いているうちに別の可能性が思いがけなく活字になって、心から嬉しいときもある。
書いていると、見えていなかった景色がまとまってくる。

人には、似合った場所ってものがあって、私は細かく情報を出す場所より、座ってよく考えて書ける場所が好きみたいだ。
そこにはワンクッションのタイムラグがあり、タイムラグはその事案について自分がどう感じたのか、これからどう扱いたいのかを知らせてくれる効果がある。
 
スピードは、便利なときもあるけれど、両刃の剣でもある。
取り返しがつかないことも起きそう。

息子が就活をしていて、毎日パソコンとスマホを駆使して面接やら試験の予約をしている。
ITを使うようになって、たくさんの会社を受験できるようになっているようだが、それだけ高望みのし放題で、結果は落ち放題だ。
その時の落とされた数って、もしかすると受けなくても良かった企業からの決定かも知れず、それで傷つくのなら、便利はやっぱりちょっと残酷かも知れない。

たくさんの情報、たくさんのチャンス、お誘いには駆けつけないと損をしたり、義理を欠く気がしたり。
携帯に色々な情報が流れてきて、疲れていても手帳に予定を書き込んでいる。
でも、人ってそんなにあちこち出歩かない方が良いのかも知れない。
仕事をするには、時には引きこもらないと。

自分の居場所は、今のところとても居心地が良い。
たくさんの本と使い慣れたパソコンと、音の良いコンポと友だちの描いた素敵な絵。
スタジオにはスタインウェイの素晴らしいピアノ。
気分が良くなるこういうシチュエーションに居られる時は、ゆっくり味わうのが良いのかも知れない。
頭の中が、なんか"もわっ"としている。
もともと、"もわっ"としていることの多い人格なのかも知れない。
壮年期にそれでは食いっぱぐれそうだったので、もわっとした自分を脇に置いといて、きっぱりしようと頑張っていた。それはまあ、それで別種のてきぱき能力などを手に入れたので良いとして、最近はまたずいぶん"もわっ"としている。

この感じは、何かが外に出ようとしてマグマっている感じだ。
ちょっと思ったのは、インプットは活字で、アウトプットは歌なのかも知れない、という件。
あまりに活字が好きで、CDは滅多に買わないくせに、本はいくらでも買う。
この好き加減を見て、私は活字で仕事をする方が良いのではないだろうか、といつも思っていた。
しかし、どう考えても、文章を書く能力より、歌う能力が優っている。
すると、インプットとアウトプットで別物、と考えるのが合理的なのだ。

けれど、最近あまり歌う気がしない。
書いている方が楽しい。
歌うには、一緒に演奏する人が必要で、ベースの是安君がいないのが痛い。
別のユニットと思うと、ちょっと面倒なのだ。
それで、ひとりで本を読み、文を書く。

そうしていると、別種のリビドーが溜まるらしく、さらにもわっとしてくる。
てきぱきはしたくないが、何となく画期的な感じがしない。
クラシックでも聴きに行くかなぁ、ブルーノート誰が出ているかなぁ、どこか行ってみようかなぁ、と欲張りだが、つい先日九州旅行をしてきたばかりで、これから連休だし、六月にはハワイに行く予定なので、そんなにうろうろしてどうするんだ!と叱る自分もいる。

もわっとするから、会議でもしてみるかな、と無駄な抵抗をしている。
すると網にかかるように、打合せの依頼なんかが来る。
しめしめ、けれどなんだが、いぢわるしてしまいそうで...ちょっと自制。
ノマドは、遊牧民という意味だ。
常日頃、ミュージシャンってノマド的だな、と思っていた。
それが最近、若い女性でよく分からない存在の人が「ノマド的なんたら」ということで話題を集めているという。情熱大陸までもが、彼女を採り上げたので、わたしぜったいに嫌な気分になるだろうな、と思いながら見てみた。

結果、そう嫌な気分にはならなかった。
それは、番組を作る人たちの編集センスが悪くないからだと思うが、問題は「ノマド的な働き方」とか言われているものの方にあった。

そんなの、珍しくないのだ。
私は、子ども三人もいて、フリーランスしか生きる道がなかったので、ノマドどころではない、草も生えない荒野をひとり行く心境だった。
それでも、昨日のテレビの人と違うのは、一応実業をやってきたということ。
アイディアそのものを売るのではなくて、アイディアを商品という形にして売る。
アイディアとか、説教とか、自分がたまたま救われた、と今の時点で信じていることをわーわー喋ってお足を頂くというのは良いのかね、ラクだね、と思った。

大昔から、出来ることは何でも芸にしたという、自分が企画であり商品であるという職種のひとは大勢いたはずだ。ただ、ITを使っていなかったので、自分の足元から営業が始まり、歩いた範囲で仕事が成立していっただけのこと。
ITを利用して、ツィッターで仕事が来るというのは、ツィッターで頼む程度の仕事だってことだとは思うが、それをわざわざテレビで採り上げなくてはならない現在の社会ってものの方に何かあるのではないか、と考えた。

早く言えば、所属=仕事、会社=職業という意識が、何の疑問も持たれずに共有されているということだ。独立して仕事を作りだし、やり続ける、という、職業が持つ本来の在り方の方が、ほとんどの人にとって考えも及ばない領域の行為となっているのだ。

昔ながらの、家でちょっとした手仕事をやり、それを宣伝して注文を取り、切れ目なく受注できるようにしていくという仕事の仕方。
小さい商いを継続するというやり方。
出かけていって、自分の特技を買っていただくというやり方、などが仕事とは受け取られなくなってきている。
本来の仕事とは、賃仕事なのだ。
あるいは、お金に成り代わってくれることを次々と考え出すことなのだ。
その結果、払っても良いよという相手が現れれば成立する。
古くは、女性の場合それは結婚だったりもしたが。

人がひとり生きていくのに、この大騒ぎは何なのだ。
所属すると、確かに磨り減り疲弊して鬱病にもなるかも知れない。
けれど、ノマドと自称するとき、次には鬱病になると、逆に死ぬしかないのだよ。
つまり、鬱病になる環境を捨てたら、在るのは鬱病になる自由さえない苛酷かも知れず。

所属しない生き方を見つけたという凱歌を、誰にでも当てはまる自由の獲得手段として喧伝しているのであれば、それは、誰にとってもかなり危険な場所だ。
なぜなら、それは対象在っての否定でしかないから。
本来を見ずに、対象を抹殺することに血道を上げてはいけないよ。
なぜなら、その対象には、自分も含まれているんだからさ。

もう先週のことだけれど、中牟礼さんの九州ツアーに、最後の二日間だけ帯同して、九州を味わってみた。じつは、四国や島根県までは行っているのに、九州にはまだ上陸していなかったのだ。
福岡には、高橋ボスさんがいて、空港に着くなり、料亭に来いと言われ、高級なお昼の会席をご馳走になった。夜の打ち上げは、もつ鍋の店で、他に鯨料理。
ニンニクと油。カッカする。
翌日は、特急つばめで長崎に向かい、着くとすぐ中華街で待っているとバンドから電話があり、特大の皿うどんを食べ、それからチェックインしてグラバー園を観光。
夜の打ち上げは、思案橋のイタリアンで、全部店のおごりとかの贅沢なオードブルとシャンパン。私は飲めないので、食べ専門。それからみんな、3次会まで行ったそうだ。私は2次会で退散したけれど、二件目に行ったバー、アジールがすごく良かった。のぶ、とみんなに呼ばれている私より少し年上のマスターが、素敵に楽しい。

食べてばかりで、ぜんぜんお腹が空かない二泊三日。
しかも、何を食べても素晴らしく美味しい二泊三日。
福岡のごっつい感じや勢い、長崎の風光明媚、それぞれの土地に暮らす人たちから立ちのぼる、郷土があることの落ち着きと愛情なんかを肌で感じた。

東京は仕事をするには素晴らしい場所だけれど、時々地方に旅行して人間の形に触れないと、生きることの本来の姿を忘れてしまうかも知れないな、と感じた。
人には適正な生活のサイズがある。
音楽で仕事をしようとすれば、東京にいる方が有利だけれど、それは人としての自分の形を曖昧にしてしまうことでもある。
忙しく移動して、コストと段取り優先に動いていると、いつの間にか人としての輪郭がつるんとしていく。抵抗のない、面白くもない形に。
だから、軽やかに仕事をしていることと背中合わせにある危険を、いつも感じていた方が良い。


子どもの頃は、美味しいものは最後までとっておいた。
まず嫌いなものを片付けてから、お食事の余韻をその味で締めよう、という魂胆。
それは、食べ物だけではなくて他の様々な場面に対しても応用されており、一番読みたい漫画は最後まで取っておいたし、一番好きな遊びも最後の機会を待った。

無邪気な時分から、歌ったり本を読んだりばかり好きだったせいか、親に「やることやってから遊べ」といつも叱られていた。やることとは、宿題とか、予習とか、ピアノの練習とか、風呂にはいるとか、家事手伝いとかで、加えて明日までの準備万端整えてから、やっと遊ぶように、という指示だったようだ。
けれど、たいてい親が満足するまで準備していると夜中になってしまい、ついには何も出来ないうちにもう遅いから寝るように、と命令されるのだった。

しかし、その態度は完全に習慣化し、ずーーーっと長い間続いて、子育て中などは、しなくてはならないことをするだけで寝る時間もないような毎日が続くと、好きなことは何もしないですますという時代が続いた。
すると私は、自分がしたいことがあまり分からなくなってしまった。
まず、しなくてはならないことを全部するので、それで一日が終わった。
以上、であった。

良く躾けられた人物である。
家事万端、子育て万端、仕事万端、ほぼ完璧であった。
でも、私は辛かったようだ。

それがいつの間にか、そういえば最近は好きなものから食べてるな、と驚く。
しかし、たったこれだけのことができるようになるまで、結構練習した感もある。
自分優先が難しいなんて、そんなのバカじゃん、という人がたくさんいるかも知れないが、私のような人は、かなりの数いるはずなのである。

親は、世間様に迷惑をかけない人格を育てようとしたかも知れず、あるいは、親自身が理想とする人格を投影しようとしたかも知れず、しかし、感度の良い私はそれを拒否ることもなく、せっせと頑張り、頑張っても頑張ってもそれで充分と感じられない、苦しい半生を送ってしまった。

でも、選べなかったようだ。
これって問題かもと感じて心理学を学んだりもしたが、分かっても習慣からはなかなか抜け出せないものだ。

それがこの頃、急激に緩くなれたのは、たまたま、私を締め付けていると感じていた周囲の方が先に崩壊してくれたためだ。
そして病気もした。

心の中では、なんだ、そういうことだったの、つまり虚言ね、じゃあ、止めます。
となり。
ああ、ラクだこと。
に落ち着いた。

これが、現在のラクの処方。

好きなものから食べ、嫌なことは後回しにし、行きたいところに行って、楽しんでいる。
それができるのは、キリキリと、引き絞りに絞った、かのしんどい日々に溜めた経験とか理解とかの蓄積のお陰なので、何が良かったとか悪かったとかは、全然言えない。

歌えて、文章が書けて、教えられて、レーベルを運営して、会社をやって、子どもが三人も立派に育ち、友だちがわんさといて、それは、辛かった時期と天秤にかけて、どうよ、ラクしたかったのかよ、と言われたら、本音でまあ、これで良かったんじゃないのか、と納得してしまう。
かなりの程度無理に近かったが、選んだ方法はそれほど間違っていなかったみたいだ。

とりあえず、還暦前に「美味しいものから食べ始める」態度を取り戻せたことは素晴らしい。
皆様ありがとう。

偶然出会うこと

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私の毎日は、偶然誰かと出会うことではじまる。
日によって、家から出かける時間が変わるので、会社に行き着くまでにも偶然の出会いがある。

今日は、時々道で出会う、同じマンションの方と挨拶した。
彼女はひとり暮らし。教師をされていたそうだ。お嬢さんはチェンバロ奏者。
やっと桜が開いてきましたね、と言うと、「うちの窓は桜が咲くと屏風のように全面花で覆われるから、一度ぜひ見に来てください」と誘って下さった。
あまり人好きな感じのない方だったので、驚いた。
春になって、少し心が弛んだのかも知れない。
きれいにお化粧した笑顔を見て、ちょっと安心した。

いつもは会社まで歩くのに、今日はちょっと疲れ気味な感じがしてバスに乗ると、座席に息子の親友のお母さん。
私たちの息子たち、力を合わせて就活情報を交換しているらしいので、その話などする。

その時刻に出かけなければ、そのバスに乗らなければ出会わなかった人たちと話をして、なんだか嬉しくなる。

偶然出会うことが、私の趣味にあっているみたいだ。
いつもは出かけない場所に誘われて、それにまた別な人を誘って行ってみると、誘った人の方に素敵な再会が生まれたりもする。

再会するのは素敵なことだ。
長く人生を過ごしてくると、それだけ、すれ違ったり、束の間一緒にいたりした人たちの数が増え、それだけ偶然の再会や、知り合いの知り合いと出会う機会が増えて来る。

世間は狭いとよく言うけれど、たくさんの人が、たくさんの人と関わって動き回っていると、じつに、人々はうまいこと繋がっていく。
そのつながり具合がとても楽しい。

初めて会う人、いずれさよならする人。
でも最初はいつも、期待いっぱいで「こんにちは」と言うんだよね。


捨てると満ちる

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色々な仕事や企画をやっていると、その過程で嫌になっちゃうことがある。
多くは関わる人々の間の問題。
よく、人間関係とか対人関係という言葉で表される一連のことだ。
けれど、よく考えると、人間同士の関係とは、共に進めようとする事業や事柄に対する思い方でしかない。
見ている先にあるものは、みんな別々なんだなぁ、と感じるのだ。

立ち上げるときにはそれなりの方法論が必要だし、それを維持するにはまた立ち上げとは別の取り組みが必要だ。その過程で、それぞれができること、したいこと、関わり方なんかが、微妙にずれてくる。
でもそりゃ当然だ。
ひとつことに対する見方や理想は、ひとりずつで別個だから。
誰ひとりにも、君が譲れ、とは言えない。

そんなことで、残念ながら中途で一抜けしたり、距離をとったりすることが起こる。
しばらくは心が残る。
あんなに頑張ったのにさ...。
どうして分かってもらえないのかねぇ...。

けれど、間もなく別の何かがやってくる。
辞めちゃったことで空いた隙間に、別の何かが飛び込んでくる。
場所を空けておくと、新しいそれが、ちゃんとその大きさに育つ。
隙間が大切なんだな、と感じる。

捨てると、別のもので満たされる。
捨てたものは、今の私には必要ないか、無理なもので、新たにやってくる別のものは私をねらい澄まして飛び込んでくるのだ。
だから、今の私には新しいものの方が似合っている。

代謝すると、健康になる。
捨てると、満ちる。

津原泰水の「ブラバン」という小説を読んでいた。
先々週くらいから。
私より、9歳年下の作家だが、青春期に聴いた音楽の様々なレア話なども随所にあり、高校生の感情の行き来や、成長してからの再会とそれぞれの人生など、じつに上手く書き込まれていて、読み始めは感心していた。
それが、クライマックスであるはずの、終盤部分に来てから、冷めてしまった。

良い小説なのに、どうした?
そして思い当たったのが、「私の現実が、小説を追い越したのかも」という感覚だった。

3月にリリースした、中牟礼さんのトリビュートアルバムに付随する雑誌の取材。
ここでは、終戦後からの日本ジャズ界の貴重なエピソードをわんさと聞いたし、渡辺香津美さんという素晴らしい才能の持ち主が、師である中牟礼さんををどう感じているかについての話も聞けた。
中牟礼さんは、香津美さんの才能は、とっくに師を超えていると言うのだが、香津美さんの方は、中牟礼さんをヨーダに例えて、生徒一同は、中牟礼さんに献上して頷いて貰うために腕を磨いていると語る。師が存在ではなく機能だ、という証拠みたいなお話。

あるいは、渋谷のタワーレコードに営業に行き、ついでにアルバムのディレクターであるポンタさんのコーナーを覗くと、中牟礼さんのアルバムと並べて高中正義のDVDがあり、流れる映像には私のユニットでドラムを担当している宮崎まさひろが映っている。
後日本人に、「タワレコでDVD観たよ」と言うと、収録時のオフレコ話やゲストドラマーのポンタさんについての感想などを色々教えてくれた。

また別の日には、中牟礼さんのライブ会場で35年ぶりくらいにプロデューサーの笹路正徳に遭い、あちらは一目で私を思い出して「おお、内海」と。
若者を数人連れてきてくれていたので、「君たちはなんていうユニット」と訊くと、アクアタイムスという、武道館を満杯にする人たちだということが分かった。
20代の半ばに共演したジャズピアノを、飛び入り演奏で久し振りに聴き、笹路君が今回のアルバムに参加している小沼ようすけや香津美さんのアルバムをプロデュースした件や、スタジオの話などした。
若者たちもCDを買ってくれ、サインをねだっていたのが面白かった。

このように、小節より面白いかも知れない日々には、一時的にフィクションが色褪せたりする。
何だろうか、この毎日の素敵さ加減。
ちょっと興奮してしまう。

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