美味しいものから

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子どもの頃は、美味しいものは最後までとっておいた。
まず嫌いなものを片付けてから、お食事の余韻をその味で締めよう、という魂胆。
それは、食べ物だけではなくて他の様々な場面に対しても応用されており、一番読みたい漫画は最後まで取っておいたし、一番好きな遊びも最後の機会を待った。

無邪気な時分から、歌ったり本を読んだりばかり好きだったせいか、親に「やることやってから遊べ」といつも叱られていた。やることとは、宿題とか、予習とか、ピアノの練習とか、風呂にはいるとか、家事手伝いとかで、加えて明日までの準備万端整えてから、やっと遊ぶように、という指示だったようだ。
けれど、たいてい親が満足するまで準備していると夜中になってしまい、ついには何も出来ないうちにもう遅いから寝るように、と命令されるのだった。

しかし、その態度は完全に習慣化し、ずーーーっと長い間続いて、子育て中などは、しなくてはならないことをするだけで寝る時間もないような毎日が続くと、好きなことは何もしないですますという時代が続いた。
すると私は、自分がしたいことがあまり分からなくなってしまった。
まず、しなくてはならないことを全部するので、それで一日が終わった。
以上、であった。

良く躾けられた人物である。
家事万端、子育て万端、仕事万端、ほぼ完璧であった。
でも、私は辛かったようだ。

それがいつの間にか、そういえば最近は好きなものから食べてるな、と驚く。
しかし、たったこれだけのことができるようになるまで、結構練習した感もある。
自分優先が難しいなんて、そんなのバカじゃん、という人がたくさんいるかも知れないが、私のような人は、かなりの数いるはずなのである。

親は、世間様に迷惑をかけない人格を育てようとしたかも知れず、あるいは、親自身が理想とする人格を投影しようとしたかも知れず、しかし、感度の良い私はそれを拒否ることもなく、せっせと頑張り、頑張っても頑張ってもそれで充分と感じられない、苦しい半生を送ってしまった。

でも、選べなかったようだ。
これって問題かもと感じて心理学を学んだりもしたが、分かっても習慣からはなかなか抜け出せないものだ。

それがこの頃、急激に緩くなれたのは、たまたま、私を締め付けていると感じていた周囲の方が先に崩壊してくれたためだ。
そして病気もした。

心の中では、なんだ、そういうことだったの、つまり虚言ね、じゃあ、止めます。
となり。
ああ、ラクだこと。
に落ち着いた。

これが、現在のラクの処方。

好きなものから食べ、嫌なことは後回しにし、行きたいところに行って、楽しんでいる。
それができるのは、キリキリと、引き絞りに絞った、かのしんどい日々に溜めた経験とか理解とかの蓄積のお陰なので、何が良かったとか悪かったとかは、全然言えない。

歌えて、文章が書けて、教えられて、レーベルを運営して、会社をやって、子どもが三人も立派に育ち、友だちがわんさといて、それは、辛かった時期と天秤にかけて、どうよ、ラクしたかったのかよ、と言われたら、本音でまあ、これで良かったんじゃないのか、と納得してしまう。
かなりの程度無理に近かったが、選んだ方法はそれほど間違っていなかったみたいだ。

とりあえず、還暦前に「美味しいものから食べ始める」態度を取り戻せたことは素晴らしい。
皆様ありがとう。

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このページは、kyokotadaが2012年4月13日 12:13に書いたブログ記事です。

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