ノマドだってさ...

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ノマドは、遊牧民という意味だ。
常日頃、ミュージシャンってノマド的だな、と思っていた。
それが最近、若い女性でよく分からない存在の人が「ノマド的なんたら」ということで話題を集めているという。情熱大陸までもが、彼女を採り上げたので、わたしぜったいに嫌な気分になるだろうな、と思いながら見てみた。

結果、そう嫌な気分にはならなかった。
それは、番組を作る人たちの編集センスが悪くないからだと思うが、問題は「ノマド的な働き方」とか言われているものの方にあった。

そんなの、珍しくないのだ。
私は、子ども三人もいて、フリーランスしか生きる道がなかったので、ノマドどころではない、草も生えない荒野をひとり行く心境だった。
それでも、昨日のテレビの人と違うのは、一応実業をやってきたということ。
アイディアそのものを売るのではなくて、アイディアを商品という形にして売る。
アイディアとか、説教とか、自分がたまたま救われた、と今の時点で信じていることをわーわー喋ってお足を頂くというのは良いのかね、ラクだね、と思った。

大昔から、出来ることは何でも芸にしたという、自分が企画であり商品であるという職種のひとは大勢いたはずだ。ただ、ITを使っていなかったので、自分の足元から営業が始まり、歩いた範囲で仕事が成立していっただけのこと。
ITを利用して、ツィッターで仕事が来るというのは、ツィッターで頼む程度の仕事だってことだとは思うが、それをわざわざテレビで採り上げなくてはならない現在の社会ってものの方に何かあるのではないか、と考えた。

早く言えば、所属=仕事、会社=職業という意識が、何の疑問も持たれずに共有されているということだ。独立して仕事を作りだし、やり続ける、という、職業が持つ本来の在り方の方が、ほとんどの人にとって考えも及ばない領域の行為となっているのだ。

昔ながらの、家でちょっとした手仕事をやり、それを宣伝して注文を取り、切れ目なく受注できるようにしていくという仕事の仕方。
小さい商いを継続するというやり方。
出かけていって、自分の特技を買っていただくというやり方、などが仕事とは受け取られなくなってきている。
本来の仕事とは、賃仕事なのだ。
あるいは、お金に成り代わってくれることを次々と考え出すことなのだ。
その結果、払っても良いよという相手が現れれば成立する。
古くは、女性の場合それは結婚だったりもしたが。

人がひとり生きていくのに、この大騒ぎは何なのだ。
所属すると、確かに磨り減り疲弊して鬱病にもなるかも知れない。
けれど、ノマドと自称するとき、次には鬱病になると、逆に死ぬしかないのだよ。
つまり、鬱病になる環境を捨てたら、在るのは鬱病になる自由さえない苛酷かも知れず。

所属しない生き方を見つけたという凱歌を、誰にでも当てはまる自由の獲得手段として喧伝しているのであれば、それは、誰にとってもかなり危険な場所だ。
なぜなら、それは対象在っての否定でしかないから。
本来を見ずに、対象を抹殺することに血道を上げてはいけないよ。
なぜなら、その対象には、自分も含まれているんだからさ。

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このページは、kyokotadaが2012年4月16日 11:27に書いたブログ記事です。

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