歌手を中断して子育てをしていた間、ライターの仕事をしていた。
発端は、近所の主婦ライターから手伝い要請があったことだった。
もともと本を読んだり、文章を書くのが好きで、高校では合唱部と文芸部とに所属していた。
文芸部で小説をいくつか書いた。
大学のゼミの教授が、私のレポートを読んで文筆家になれと言ってくれたこともある。
それで、バンド活動では作詞をやっていた。
そのうち音楽の教則本のテキストなどを書くようになった。
だから、雑誌の立ち上げで人手が足りないと誘われたとき、あまり抵抗なく手伝う気になった。
最初は健康雑誌、その伝手で色々な編集者と知り合い、月刊誌、週刊誌、ムック、書籍から新聞系まで、ジャンルも健康、旅行、美容、育児、園芸、料理、評論まで本当に色々なことをやった。
けれども、出版の世界は音楽以上にギャラを取り損なうチャンスに満ちていて、取材したり書いたり校正したり、時には編集したりの他に、もれなくギャラを獲得するための心構えも必要なのだった。
ある時、私が書いた本がすごく売れた。
当初、制作した編集プロダクションが示した割合はあちらの取り分が2割のはずだったのだが、気がつくとほとんど搾取されていた。
文句を言ったら、おじさんが出てきて、女性社長に頭を下げれば幾分かのパーセンテージを支払わないでもない、と言われた。
その頃、私はとても貧乏で、その数十万円が有ると無いとでは大違いだったのだが、何日か眠れないほど激怒して、結局頭を下げるのを止め、袂を分かった。
以後は、編集プロダクションと付き合うのを止め、版元と直にできる仕事に絞った。
そして、著書を出せるようになった。
やがてジャンルを音楽に絞った。
そして歌手にも復帰した。
その後も波瀾万丈で今日がある。
ライターと音楽家それぞれに10年ずつかけた。
本来、文章を書くのは自分を知るためで、それは、説得力のある歌を歌いたかったためだった。
若いときの薄っぺらく、上滑りな歌。
それに内容を加味するためには、自分の中味を豊かにするしかないと考えたからだ。
色々なカルチャーにアクセスし、本を読み、考え、試行錯誤した。
それを生活が困窮したときに仕事にし、しばらくしてやっと音楽に戻った。
戻っても良いと感じたのは、末っ子が中学生になった頃だ。
それから、浦島太郎の心境でジャズのライブを始め、色々トンチンカンな行動をしながら、今日まで来た。
その今日までの間、あの、頭を下げなかった件がすごく大きい。
頭を下げて、あの編集プロダクションに居続け、仕事を貰っていたら音楽に復帰していなかったかも知れない。
いつも、つまらない仕事に忙殺されてため息をつき、疲労ばかりが募っていたのではなかろうか。
あの時、じつは私は自分を残念に感じていたのだ。
そんなに負けず嫌いでどうするんだ、頭のひとつも下げられないなんて、大人じゃないよ。
プライドより現金だろ。
でも、今はその時の自分を愛おしく思う。
苦しんでもがいて、よりしんどい道を選んだ自分をいい人間だと思える。
その姿勢は、全く余裕なんかない、ギリギリの所で自分の中から沸いて出た形だった。
そのことが、誰によってもたらされたのか、何によってもたらされたのかは分からない。
でも、良かったなぁ、と思う。
頭下げたら、私の人生が汚れる、と思った若い日の自分を、良かったなぁ、と思う。
発端は、近所の主婦ライターから手伝い要請があったことだった。
もともと本を読んだり、文章を書くのが好きで、高校では合唱部と文芸部とに所属していた。
文芸部で小説をいくつか書いた。
大学のゼミの教授が、私のレポートを読んで文筆家になれと言ってくれたこともある。
それで、バンド活動では作詞をやっていた。
そのうち音楽の教則本のテキストなどを書くようになった。
だから、雑誌の立ち上げで人手が足りないと誘われたとき、あまり抵抗なく手伝う気になった。
最初は健康雑誌、その伝手で色々な編集者と知り合い、月刊誌、週刊誌、ムック、書籍から新聞系まで、ジャンルも健康、旅行、美容、育児、園芸、料理、評論まで本当に色々なことをやった。
けれども、出版の世界は音楽以上にギャラを取り損なうチャンスに満ちていて、取材したり書いたり校正したり、時には編集したりの他に、もれなくギャラを獲得するための心構えも必要なのだった。
ある時、私が書いた本がすごく売れた。
当初、制作した編集プロダクションが示した割合はあちらの取り分が2割のはずだったのだが、気がつくとほとんど搾取されていた。
文句を言ったら、おじさんが出てきて、女性社長に頭を下げれば幾分かのパーセンテージを支払わないでもない、と言われた。
その頃、私はとても貧乏で、その数十万円が有ると無いとでは大違いだったのだが、何日か眠れないほど激怒して、結局頭を下げるのを止め、袂を分かった。
以後は、編集プロダクションと付き合うのを止め、版元と直にできる仕事に絞った。
そして、著書を出せるようになった。
やがてジャンルを音楽に絞った。
そして歌手にも復帰した。
その後も波瀾万丈で今日がある。
ライターと音楽家それぞれに10年ずつかけた。
本来、文章を書くのは自分を知るためで、それは、説得力のある歌を歌いたかったためだった。
若いときの薄っぺらく、上滑りな歌。
それに内容を加味するためには、自分の中味を豊かにするしかないと考えたからだ。
色々なカルチャーにアクセスし、本を読み、考え、試行錯誤した。
それを生活が困窮したときに仕事にし、しばらくしてやっと音楽に戻った。
戻っても良いと感じたのは、末っ子が中学生になった頃だ。
それから、浦島太郎の心境でジャズのライブを始め、色々トンチンカンな行動をしながら、今日まで来た。
その今日までの間、あの、頭を下げなかった件がすごく大きい。
頭を下げて、あの編集プロダクションに居続け、仕事を貰っていたら音楽に復帰していなかったかも知れない。
いつも、つまらない仕事に忙殺されてため息をつき、疲労ばかりが募っていたのではなかろうか。
あの時、じつは私は自分を残念に感じていたのだ。
そんなに負けず嫌いでどうするんだ、頭のひとつも下げられないなんて、大人じゃないよ。
プライドより現金だろ。
でも、今はその時の自分を愛おしく思う。
苦しんでもがいて、よりしんどい道を選んだ自分をいい人間だと思える。
その姿勢は、全く余裕なんかない、ギリギリの所で自分の中から沸いて出た形だった。
そのことが、誰によってもたらされたのか、何によってもたらされたのかは分からない。
でも、良かったなぁ、と思う。
頭下げたら、私の人生が汚れる、と思った若い日の自分を、良かったなぁ、と思う。
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