日本の平和について

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日本は平和だな、という思いは、原発がはねている現在だと当たっていないのかも知れない。
けれど、ヨーロッパとかアメリカから届く小説やドラマを見ていると、日本に於ける日常の平和度はすごいと感じてしまう。もちろん、フィクションを見て、そのままそれが現実の日常を表しているとは言えないのだが、それにしても、テロリズムや移民問題、人種問題、銃社会など、現実的な脅威の絶対量が比較にならない感じがするのだ。

昨年の翻訳部門で本屋大賞の1位になったドイツの短編集『犯罪』と、それに続く第2弾『罪悪』。
著者は、法曹界の人なので、現実の事件をヒントにして構成しているのだが、そのいくつかの事件の背景に、移民との共生の困難が見え隠れする。
ヨーロッパは、フランスなども、かつての植民地から多くの移民を受け入れている。
人道的配慮から亡命者や難民の受け入れも多かった。
一時は、その方向性が先進的だったはずなのだが、国自体に余裕が無くなってきた途端に、はじき出される階層がはっきり見えてきた。
あくまでも、民意というよりは経済によるどうしようもないパイの取り合いで、それが人への抑圧となって悲劇的な事件が起きる。
犯罪は、その社会に対する愛着や感謝が失せた人々によって為され、突如のように凄絶な様相を見せる。

アメリカは、銃が全ての危機に絡んでいる。
犯罪チャンネルは、銃がなければ成り立たないほど、たくさんの犯罪と死を扱っている。
人種による謂われのない強迫や差別。
見ていると、良くこんなストレスフルな社会で正気を保っていられるものだ、と感心する。

いずれにしても、緊張度が高い。
日本の犯罪は、どんなにひどくても、どこまでも因果関係を追える感じがするが、欧米を見ていると突如として容赦ない、つまり不条理な犯罪に巻き込まれる度合いが高い気がする。
手段も容赦ない。

政府の要人や経済界の大物が爆破や銃で死んでゆくなんて、日本にいては実感が薄い。

日本は、原発が全部止まって、電力不足をどのように解釈するかの次元に入った。
電力が足りないための、つまり突如の停電に対策することが万遍なく行けば、ヒステリックにならず、何とか乗り越えられるのかと思う。

日本は、突如の暴力が少ないために、平和に生きていられることを前提として、電力をいっぱい使った安楽な日々を望んできた。
けれど、その平和に対する無邪気で無防備な信頼が、逆に取り返しようもない汚染や国土に対する自虐を発生させたのだ。

一体、政治というときの主体はどこにあるのか。
身を守るという、生物にあって当然の危機意識を薄れさせてくれるのが「良い国家」だと、みんなして政治に甘えかかったてきた気もする。
政治というか、政治家に。
甘えかかった私たちは、不条理な危機に直面しない代わりに、肩代わりしすぎて破綻してしまった政治のつけを支払うことになっている。
生きている国土、つまり自分たちが含まれる大地や大気を、安楽のためにとことん搾取すべき対象と考えがちな傲慢も、実のところ政治に対する以上に大いなる甘えだったのではなかろうか。
主体が、自覚的には個人の身体でしかないとき、それを生かす大地や大気は、他者となったのだろうか。暑ければ冷やし、寒ければ暖め、それというのも、年がら年中休み無く生産するため。

たくさん作って、たくさん消費して。
けれど、そのことばかりに忙しくて、子供を作ることはできなくなっている。
誰が何をどう勘違いしてきたのか。
それが知りたくて、考え続ける。
答えは出ないけれど、少しは反省の材料になる。
豊かで安楽で、楽しいということが最も重視される私の生きた時代。
運が良かったと、心底思いはするのだが...。


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このページは、kyokotadaが2012年5月 6日 13:21に書いたブログ記事です。

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