このところ、自分の周囲に厚い雲みたいな雰囲気のものがあって、それがいつも綿あめみたいに私を包んでいる。
例えばそのものを、「もんわり」と名づけてみる。
仕事をしていて、以前なら異常に集中してやっていた種類のこと。
頭も気持ちも、とんがって、キンキンするような体感でやっていたことをはじめると、それがクッションのように厚くなって、感性が鈍くなる。
逆に、以前なら少し距離が感じられて、それは話として聞いておくよ、みたいなことに対して、「もんわり」が開かれるようなのだ。
「もんわり」は、過剰から心や身体を防御するかわり、別なルートに開かれるときは霧が晴れるように道を空けて、気持ちを導いてくれる。
この頃読んでいる本は、比較宗教学とか歴史認識なんかに関する本が多い。
心理学は、個人の喜怒哀楽の変動についての学問だけれど、主体、つまり自己と認識される「私」を取り巻く環境とか、状況を知るには、繰り返し、これまで学習してきたことの総ざらえが必要なのだ。
その祭、最近書かれた話題の本のいくつかは、歴史として編纂された情報の中に埋没してきた身体性とか土着性を掘り起こしていて興味深い。
日本という国が何なのか、とか、日本人と呼ばれている人々の成り立ちについて、とか。
「もんわり」の厚みとか色とかに導かれて、いろいろに考え方が変わるし、やりたいことが変わる。
すると、自分が向かう方向とか、目に見えない力の動き方が感じられてくる。
だから、その不思議な「もんわり」は、精神のさなぎみたいなものかも知れないと気づく。
病気も含め、さなぎが遮断や変成のための防衛機制だとすれば、少しは得心がいく。
ここ数年、自分にとっての不思議なことが起こり続けるのは、別のベクトルを持つ何かに触れるようになったからなのかもしれない。
「もんわり」は、そこからもたらされた私への報せだ。
例えばそのものを、「もんわり」と名づけてみる。
仕事をしていて、以前なら異常に集中してやっていた種類のこと。
頭も気持ちも、とんがって、キンキンするような体感でやっていたことをはじめると、それがクッションのように厚くなって、感性が鈍くなる。
逆に、以前なら少し距離が感じられて、それは話として聞いておくよ、みたいなことに対して、「もんわり」が開かれるようなのだ。
「もんわり」は、過剰から心や身体を防御するかわり、別なルートに開かれるときは霧が晴れるように道を空けて、気持ちを導いてくれる。
この頃読んでいる本は、比較宗教学とか歴史認識なんかに関する本が多い。
心理学は、個人の喜怒哀楽の変動についての学問だけれど、主体、つまり自己と認識される「私」を取り巻く環境とか、状況を知るには、繰り返し、これまで学習してきたことの総ざらえが必要なのだ。
その祭、最近書かれた話題の本のいくつかは、歴史として編纂された情報の中に埋没してきた身体性とか土着性を掘り起こしていて興味深い。
日本という国が何なのか、とか、日本人と呼ばれている人々の成り立ちについて、とか。
「もんわり」の厚みとか色とかに導かれて、いろいろに考え方が変わるし、やりたいことが変わる。
すると、自分が向かう方向とか、目に見えない力の動き方が感じられてくる。
だから、その不思議な「もんわり」は、精神のさなぎみたいなものかも知れないと気づく。
病気も含め、さなぎが遮断や変成のための防衛機制だとすれば、少しは得心がいく。
ここ数年、自分にとっての不思議なことが起こり続けるのは、別のベクトルを持つ何かに触れるようになったからなのかもしれない。
「もんわり」は、そこからもたらされた私への報せだ。
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