みんな悩むんだね

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昨日、サッカーを見た勢いでずーーっとテレビを観ていた。
遅くに、三宅裕司さんと志の輔さんの対談があった。
ふたりは、大学の落研で先輩後輩にあたり、志の輔さんはずっと三宅さんに憧れていたそうだ。
三宅さんは、落語に進まず劇団を作って、芝居を始めた。
それを見た志の輔さんは、三宅さんですら落語をしないのだから、自分なんか全然駄目だろうと思ってサラリーマンになったそうだ。
けれど、やっぱり落語が好きで立川談志の弟子になる。
その師匠がまた凄かったので、三宅さんから談志にヒーローは移りつつも、いつもふたりの存在が重くのしかかっていたという。
一方の三宅さんは、色々なことをできてしてしまう自分を、いいのかなぁ、といつも感じていて、志の輔さんの、この道一筋が気になっていた。一種専業の凄さに引け目を感じていたような...。

そうなのか、と思い、少しホットした。
私は三宅さんタイプで、歌う、書く、プロデュースする、教えるをやりつつ、家庭のこともいろいろやる。
ときどき、自分の頭の中のどこにこんなにいっぱいの情報が入っているのだろうか、と心配になる。
過剰だ、とも思う。
けれど、能力は目一杯使うしかないのだ。
ほどほどにした方が良いよ、というアドバイスは、過剰に見える人に不安を覚える周囲がしてくれるアドバイスだが、過剰な側は、エネルギーを使い切らないと下手すると病気になるのだ。
少しおとなしくしていろ、と言われても、そうしていることの方が大変。
疲れて動けないときに休むくらいでちょうど体調が良い。

それは、自分に向いている道に進んだからという理由もあるし、体力があったからそうしていられるということもあり...。

けれど、いつのまにやら自分の境遇を誰かと比べて、あちらの方が正解なんではなかろうか、といつもいつも、微かに悩んでいる。
悩んで動けなくなるわけではない。
動き回っているのだが、それが正当かどうかをいつもどこかで疑っている。
それは、自分の足を引っ張ることと言うより、危機管理能力のひとつで、過剰の質を検分しているということのようにも思う。

心の中にあるひとつの感情に「悩み」という名前をつけると、それは悩みになるが、「バランス感覚」と言い換えてみれば悩みではない。
お腹いっぱいで、もう食べない方が良いときと、まだ食べられる、というときの差を、心はいつも点検している。

ここまで生きてみると、多幸感に包まれた「オッケーでハッピー」な気持ちが、どれほど危険で、しかも長続きせず、さらには落とし穴の可能性に満ちているかを経験で悟る。
逆に、うじうじしながら、仕方なく腹をくくってやり続けたことの方が成果そのものだったりもする。

みんなして不安や悩みを口にしてみると、イケイケだと思われている人も、実は同じような心地悪さを感じていたりする。
それはそうだろう。
生きている限り、周囲との摩擦によって、生命は熱を帯びなくてはならないのだから。

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このページは、kyokotadaが2012年6月 4日 11:28に書いたブログ記事です。

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