書くこと

user-pic
0
子供の頃から漫画雑誌も含め、本を読むのが大好きだった。
新しい本を手に入れると、暖房の側に陣取って、冬ならみかんをたくさん用意し、食べては読み、読んでは食べ。

生まれ育った家の暖房は、ペチカというものだったので、暖まった赤いレンガに背中をくっつけて、廊下に保存しているキンキンに冷えたみかんを食べた。
北海道の、人口2万人の町には、書店が2〜3あったろうか。
昔は、雑誌を「取る」という習慣があり、毎週、毎月、子供たちが読む漫画雑誌、父が読む総合誌、母が読む家庭雑誌などが届いた。
じつに、少年マガジン、少年サンデー、後に少年ジャンプ、週間マーガレット、なかよし、りぼん、文芸春秋、月刊宝石、家庭画報、暮らしの手帳、女性自身など。
私が成長すると、これにティーンルック、ananなども加わる。
今思い返すとすごい。
そして日々、家族全員分の雑誌をなめるように読んだ。

父は教養主義だったのか、家には少年少女世界文学全集と日本文学全集、世界の美術というグラフィックな事典類他、何だか色々な全集ものも揃っていた。
それらをいつも、おやつを食べながら見ていた気がする。

小学校高学年になると、研究授業というものがあり、太宰の「走れメロス」を教材として、いつもとは別の偉い先生が授業をし、感想文を発表する、というイベントがあった。
私は、メロスに話しかける形式で、小学生なのに10枚も書いて、先生に望外に褒められた。あなたはぜひ大学に進み、文科系の勉強をしなさいと励まされた。

家が医者系だったので、親は渋い顔をした。
けれど、高校では合唱と文芸部で活躍し、文科系の先生のおぼえが良く、音大は諦めてやるから、文学部に行かせろと親を説得して、興味津々だった「文化人類学」の学べる大学に入った。するとそこのジャズ研がコンテスト優勝常連のサークルで、しかも、場所が吉祥寺。高田渡さんとも知り合うなど、ミュージシャンの友達がわんさかできた。
ゼミは「思想史」。そこで精神医学に出会い、指導教授に気に入られて研究室で助手をしないかと誘われたが、歌を聴いてもらって諦めて頂いた。
ゼミの提出レポートは「好きなことを書け」と言われて、散文など出したこともある。生意気。けれど、文章を書くことが幾分得意だな、と思わせて頂いた。

歌っているうちに、何となく行き詰まり、結婚して子供を持ってから家でライター仕事を始めた。最初はコテンパン。
編集さんたちから「ギャラを頂ける文章の書き方」を叩き込まれた。そして、フリーランスならではの取りはぐれ、揉め事、不安定を友に、未だ諦めず書き続けている。

今、数年前のものを見返すと、思っていたより下手で、つまり日々、少しずつ上手くなっているのかも知れない。
実際には、それも気のせいで、相対的にはまだまだの水準なのだが、それでも、書くことで自分の人生がだいぶ救われている。

書いていると、自分を開示したときの気分、登場させる人々との距離感や関係性、そして過ぎ行く時間の質の手触りなどが分かる。
長年、小説などのフィクションを書きたいと願っていたのだが、私には少し無理なようだ。フィクションより、現実が凄いから?
良く分からないが、エッセイとか解説の方が楽しい。
それが、私の「書くこと」みたいだ。

どういう方が読んで下さっているのか分からない。
たまに、「読んでいます」と、思いがけない方に言って頂く。
少しばかり恥ずかしく、けれど励みになり。
姿の見えない読者の皆様の存在も、きっと私の助けになっている。




トラックバック(0)

トラックバックURL: http://tadakyo.web5.jp/mt/mt-tb.cgi/343

コメントする

このブログ記事について

このページは、kyokotadaが2012年12月13日 10:41に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「音楽の周りをぐるぐる踊る」です。

次のブログ記事は「いつも少数派」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。