音楽は人の中にある

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「どこまで行っても人なんだよ」
あるミュージシャンがつくづくのように呟く。

「まあ、そうだね」
と言ってしまう。
実際、音楽は人の中にある。
演奏家の出音は、その人の中にあるリズムや技術や理解以上にはならない。
あまけに、演奏1曲の中に全てがあるとも言えるし、ほとんど出ない、せいぜいがその人の中の数パーセントだ、とも言える。

歌を教える時、その人の技術を育てるフィジカル訓練の部分と、音楽や楽曲に対する向かい方、捉え方や理解の仕方、楽しみ方を育てるメンタルな部分とがある。
そのふたつが、いつも追いかけっこをしている。
技術が成長し、できることが増えると、なぜか人はその先の未知の部分を理想とするようになる。
そしてその未知の部分がないと、進歩が望めない。
人は必ず、自分がまだできていない、理想とするものの可能性の方を見ながら練習するようなのだ。
その「理想」がどこから来るかと言えば、いつも耳にしている素晴らしい演奏家たちのアーカイブだったり、ライブだったり。

人がこれほど素晴らしい表現をできるのだという事実に打たれて、その一端をこの身体で実現してみたいと欲望する。
欲望しながら次に何をするかと言えば、自分を知る。
今できること、やらなくてはならないこと、追求して可能性のあること、残念ながら不可能そうなこと、意欲の有無、そして環境など。
生きるための仕事や家事をこなしながら、家族や友人との付き合いをこなしながら、どこかで確実に実現したことが増えるのを感じ、充実する。

もちろん、不全感や欲求不満はいつもある。
けれど、それを含めて、何とかしてここを突破してやろうという意欲で元気を出す。
ひとりの音楽の中には、そうして積み上げる全てがある。
練習、心の整理、馴れや自信。それらが全て出る。
全て出るとは言い方を変えれば、あるものしか出ないということでもある。

ユニットの演奏は、ひとりずつがその曲の未来、同じ行方を見ながら進んで行くものだ。
横一列になったり、少しでこぼこしたり、けれど、その曲の行方を前方にひたと見据えながら、落っこちないように、気を抜かないように全員で進んで行くものだ。

その演奏時の緊張感が好きだ。
仲間がいて、皆に期待し、耳をそばだてながら、一緒に前を見て進んで行く。
必ず、惜しげなく持ってるものを全て出しながら、一緒に進んで行く。

終わると、もっとできたはずだった、と思ったりする。
最近はほとんど無くなったけれど、修行中はその連続。
最近の不覚は、暗譜の完成度が主になってきたけれど、それでも、アンサンブルする仲間とのバランスについては多く反省する。
反省してすぐ次。
後悔はできない。
その時間は惜しい。

ライブで出たことは、それまで準備したことの全てだ。
ライブの度に、できたこと不満なことが溜まり、それがなぜか意識しない心の底の方で変化していく。
その意識できない部分が積み重なることでしか、本当の意味で音楽が良くはならない。
不思議だけれど、「力を抜く」とか「リラックスする」ということひとつとっても、そこに至るまでとても時間がかかるものだ。
それでも、理想とすれば少しずつでも必ず近づく。
意識しないと変わらない。
変わるためにははじめに、アイディアを持たなくてはならないようなのだ。
そのアイディアの質がまた、大切なようだ。

ミュージシャンひとりひとりの、そのアイディアの精錬方法を見ている。
全員、本当に異なっている。
つまりそのアイディアこそがオリジナル。
人は真実、多様なんだと知る。
同じ日本人でもこんなに多様なんだ、と感心する。
そして世界の広さを改めて思い出す。

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このページは、kyokotadaが2013年1月23日 11:31に書いたブログ記事です。

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