テレ東が中央線文化している気がする

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金曜日の夜中に、テレ東で「まほろ駅前番外地」というドラマをやっている。
三浦しおんさんの小説「まほろ駅前多田便利店」のキャラクターを活かした、監督書き下ろしものだ。
私はこれを見て激しく感動した。
映画的だが、テレビサイズのかろみがあり、体温のある人間がいる。
脚本は、ばかばかしくも極端なドラマ進行なのだが、それが少しも痛くない。
おまけに、最後に流れてきた歌。ゆらゆら帝国のあの声...。

上手いなぁ、才能だなぁと感心して、それからノスタルジックな感慨に浸る。
この感じを私はずっと好きだったなぁ。

この感じが好きなのは、私が中央線に憧れた若者だったからかも知れない。
中央線の吉祥寺、西荻、阿佐ヶ谷、高円寺、そしてちょっと離れた国立辺り。
上京直後の私の東京生活は、ここいらを拠点に展開していた。
ジャズとかフォークとかロックとか、絵を描く人、文章を書く人、店をやる人。
それらの人の姿。
商売なんだが、それより先に形にしたい何かがあり、そのための商売。
形にならないときの悩み、試行錯誤、笑い飛ばし方、距離の取り方。
国が理想とする労働者像から逃走し続けるための思考。

「こんなんでも楽しく生きて行けますよー」と、気張らずに見せたい気取り。
人と違うことを目指す自己顕示欲。
キッチュやデコンストラクションに浸りきりたい官能。

そういうものがごったになって、趣味が異なることを細かく検分しては互いを罵り合ったり。なるべく清潔に見えないように心を砕いたり。まじめであることを気取られないように細心の注意を払ったりしていた。

その頃の空気感が、テレ東の番組の中にある気がする。
要するには、何をするにも細部なんだ。細部に関する知識と経験、そしてその積み上げ。
職人や海外に派遣されたビジネスマンたちは、現場や駐在先でどうやって暮らしを立てているか。

時には、家に眠る家宝が、じつは、三文品だということを宣告してあげる番組。骨董好きの妄想をあるいはオタクの勘違いをみんなで笑って明らかにする番組。その骨董を根拠に持っていた「名家」の自信が、呆気なく崩壊したりする。あるいは価値あるものに込められていた先祖の思い入れを再確認することもある。

それらの番組の目線は、他局と違っている。
NHKが、日本国という共同の意識のために大枚をはたいて「世界初」の映像、「世界最高」の技術を見せてくれる一方で、街はテレ東が描くように在る、と納得する。街にいる人々は仕込みもない素のまま、驚くほどの率直さで映り込む。

その中に、かつて私が中央線沿線で知った、何とも言えないサブカルの匂いがある。
それは、人を同じ目線で見て、ヒェラルキーを消そうとする試みだ。
ひとりずつがいるだけで、上下なんてないのさ。
好きなことを好きなようにやって、周囲に迷惑かけたり世話になったり、逆に世話したり、そういう日々こそが愛おしくないですか。

「テレビ東京」の番組の中で懐かしい匂いを感じた。何だろう、これ、この気持ちは何だろう。そして、はたと膝を打つ気がしたのだ。
テレ東って、もしかして中央線文化なのじゃないのか、と。

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このページは、kyokotadaが2013年1月21日 11:38に書いたブログ記事です。

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