大分前に買って、さらっと読んだ、ダニエル・バレンボイムとサィードの対談をまたゆっくり読み始めている。
バレンボイムはロシア系のユダヤ人で、言うまでもなくピアニストとしても指揮者としても天才。サィードはパレスチナ人でカイロに育ち、世界的に認められた多方面の評論家、ピアノがかなり上手い。
この二人が、音楽について、音楽の歴史や社会との関連について思うところ、行動したことなどを話し合っている。
例えば、ナチズムに協力したとされるワーグナーの音楽をイスラエルで演奏すること。中東の互いに侵攻し合っている国々から若い音楽家を集めて、ワークショップをし、オーケストラとして演奏してみること。
二人は世界中を飛び回る過密なスケジュールの中で、さらにこれらのことを、中東のために発案し実行している。その中で見えてくること、関わった若い人々が体験すること。
話は、純粋に芸術としての音楽についても深まる。その中で、音楽が他のアートと異なるのは、固定できない特質によると語られていた。絵画や彫刻、建築などは何度でも同じものを見ることかできるが、音楽では決して同じ演奏はできない。
この本を読み進むのは大変だ。数行読むたびにわたしの頭の中に数々の連想「association」が沸き出して、読んで理解している文脈の脇に別の色彩鮮やかな発想の波が発光するからだ。時々、こういう効用を表す本に出会う。中身が素晴らしい以上に、その何が私を刺激して引き回すのか、呆然とする。
本を読むという行為からすると、小説は面白いけれど呼んだ後に「だから何」という気が必ずしてしまう。この先がどうなるのか、結末が知りたいと思いつつ読む本は特に、さんざん読んだ後に、空しい感じが残る。
つまり、最近の私には物語は余り必要ないのかも知れない。
物語ではなく、書き手の深い洞察を感じたときは「有り難い」と思う。それは共感かも知れない。その共感の持ち方と、音楽が生成しながら育って行く感じが似ている。書き手を聞いて読み手の私が連想し、そのコラボという点で、演奏と読書が似ているときがある。
最近は、音楽の要素はシンプルなのが良いと思うようになった。シンプルな中で、人の生理に寄り添った生成を生む。初めに進歩とか斬新とか難解を追うのではなくて、シンプルなところから次第に色付けて行く。エスキースから大作を仕上げて行くかのように。
音楽は、止まらない。一時の結果をCDにしたところで、それは演奏家にとっては過去のものでしかない。だから、記念写真的作品はもしかすると必要ないのではなかろうか。ただ、自己確認のためにアウトプットとして客観的に聴いて、また次のことへと歩み出す標にするだけのことで。
人を真ん中に据えてみると、彼らが生み出す作品群よりも、彼らの細胞が入れ替わり、絶え間なく変化し続けていることにだけ意味があるような気がして来る。
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