間違いだらけ、または正解

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ふと、人間は間違いだらけなものだ、という正解にたどり着いた。
色々、間違うので、予防したり、避けようとしたりするが、そうすればまた別な文脈の間違いが起こる。
みんなで「間違ったでしょ」とか、「いや、そうでもないのでは」とか、「絶対許せん」とか、「まあまあ、そう仰らず広い心で」などと言い合う。
物事の是非の判断は、とことんつき難く、正解と言われることもその都度変わる。

ただし、人が死ぬとみんな結構うろたえて、自分を責めたり相手を責めたり、多いに反省したりはする。
けれど、人の死亡率も100%なので、理由はどうあれ一度は死ぬのだった。

間違いだと思って誰かを責めたくなる。
それが辛い。
責めたくなる自分が辛い。
間違いだなんて、つゆほども思っていない相手に対しては、さらに上げた手のやり場すらない。
怒りは空中に放られ、行き場もないのでいつまでも頭の周囲をぐるぐる回るしかないのだ。

間違いのレベルも、人によって様々で、いつかこうゆっていたから、これについては間違いだとゆうことが分かる人なのだろうと予測して付き合うと、全然そんなことはない場合も多々ある。

基準が分からない。
何を以て是非の判断をつけ、憤慨して見せているのか、全く謎な人々。

周囲のほとんどがそういう人な場合、こちらの頭は混乱し放題だ。
しかし、相手からすれば、こちらの基準も混乱もよく分からない、言わばヒトゴトである。
「なんかよくわかんなーい」
以上、であったりする。

つまり、人はそれぞれ自分だけの基準で「良い」とか「悪い」とか、「気分良し」とか「ムカつく」と感じているだけなんである。
自分の不快を、人のせいにしてわずかばかり溜飲を下げながら日を暮らすだけなんである。

できれば、この世は間違いだらけで、この先も永遠に間違いだらけが続く、と思っていた方がいい。
そして、それらの膨大な間違いを正す暇はない。
この間違いを正している間にも、さっさと次の間違いが育っている。
味噌汁の味付けを直している間に、サンマが焦げている感じだ。

だから、適切な振る舞いとしては、自分以外の人がやることに関しては、なにひとつ正そうとせず、彼らの意外性に富んだ間違いぶりを楽しく観察するのがいい。
正さないでいると、時には、自分が間違いだと判断したことが、そのまま、気づかれずにスルーされていくのを目撃できたりする。
つまり、間違いっぽいことが、目に見える事件や瑕疵になるか否かは、ひたすら運次第ということなのだ。

どこかで薄々それを感じ取っているから、みんな、宝くじを買ったり、神社で柏手を打ってみたりするらしい。
「運」は、良いときも悪いときもある。
しかし、良い運が、いつまでも良いままというわけにも行かない。
運が良すぎると、次の普通な時を運が悪いと見なし、そのために鬱になったりするのだ。

今の世の中の、誰が正解かを当てましょう的なゲームは、いつ頃どうやって形成されたんでしょうね。
誰かが必ず正しいはずだ、と考えるのは、相当程度の悪い妄想だと思うんだが。
時々、テレビかなぁ、それに先立つ新聞かなぁ、とか思うのだが。
要は、自分の代わりに考えて正解を言ってくれる存在を、ハートの中に隠し持っている、ということなんだけど。
それが、でっかいテレビ画面に映し出されるはずだと、どこかで思い込まされてしまったようなんだよね。

というようなことを、いつもため息をついて、自分以外の人々が出来が良くないために、世の中がこんな風なんじゃないの、って言いたそうなニュースキャスターを見て思った。

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このページは、kyokotadaが2012年5月11日 15:36に書いたブログ記事です。

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