何しろ、生きのびることだよね

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人を見損なう、ということがある。
「見損なったよ」という劇の台詞は、「思ってたより全然駄目じゃん」という相手に対する捨て台詞だったりするが、その逆で、その人の持つ能力を見切れなかった、ということもある。
今日はそっちの話。

みんなにそれぞれ違う能力があって、自分にない能力に関しては、どれほどのもんか分からない。
分からないので、すごく失礼しちゃう危険がある。
おやじバンドで気の毒なほど下手にギターを弾いている人が、仕事となると大きい会社の実力有る重役だったりする。
どっちで対応したらいいのか、少し悩む。

音楽の場面では、私は「先生」と呼ばれて尊重されるが、別の場面だとただの貧乏人でしかない。
何の保証もない社会的弱者だ。
人を捉えるときは、その人の生成要素をつぶさに知らないと難しい。

生成要素には、その人の歴史が関わっている。
どんな生い立ちか、どの時代に生きたか、どんな場所で生まれ育ったか、どんな家庭だったかなど。

中には、驚くほどの逆境で生きている人もいる。
よくぞご無事で、と駆け寄りたくなるような。

生きた歴史による影響と、職業による専門化などは、ともにその環境を生きのびるために身についたことだ。
そしてそれが、別の場面では理解されがたい場合もある。

ちゃらい、とうるさがられる人は優秀な営業マンであるかも知れない。
無口で偏屈といわれる人は、裁判官かも知れない。

人の偏りは、生きのびようとしたときに生まれる。
環境に適応していくうちに、生きのびやすい形に偏っていく。
自分が持って生まれたものとフィット感があるところは、とくに肥大する。

だから、人は本当に色々。

ひどく了見の狭い人、いつも人を肴に罵ったり、くさしたりしている人々。
たいてい、世間の狭い人で、自分と違う行動をする人は全部ヘンだ、と信じている。
生活に変化がない場合、社会的な苦労をしていない場合にそうなりやすい。
人をくさすのは時間潰しで害はない。

でも、仕事となるとそうはいかない。
自分には予測のつかないことを次々する人に対して、あの人何でああなんだろう、と思うとき、その人の歴史を知りたくなる。
どこかで、特殊な適応の仕方を身につけたに違いないのだ。
そこを理解できると、ビッグバンが起きることもある。

そして思う。
どんなに特殊な方法であれ、生きのびて今日有ることは素晴らしいことなのだ。
挫けないで、今日まで生きのびていることは、素晴らしい。

その生きのび方の様々を描くのが、文学だろうと私は思う。
思いつく限りの生きのび方を記録してあれば、どうして良いか分からなくなった未来の人を、偶然に救うことが出来るかも知れない。

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このページは、kyokotadaが2012年5月14日 11:59に書いたブログ記事です。

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