意味なく喋るのは

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普段は、あまり喋らない。
どちらかというと聞き役。
レッスンの生徒さんたちも、息せき切って駆け込んできて、ひとしきり近況報告をしてから、落ち着いて発声など始める人が多い。

喋りたいのだ。
女性が数人寄ると、ずーっと喋っている。
私は立場上、つまりレッスン料を頂いている場面では、その時間に無駄なお喋りは出来ない。
普段の集まりでも、専門的な話を出さないように、いつも相手の出方を見てから話題を選ぶ癖がついている。

私としては、喋っていい時間帯が来れば自分の話を始めよう、まずは切羽詰まって喋りたいこと満載の人に先発を譲ろう、という気持ちなのだが。
意外に、喋っている人々には、時間を譲られている、という感覚はないようなのだ。
喋りたいから喋って何が悪いの? え?
という風情。
それで結局、まずはあなたの話を聞きましょう、という気遣いしているうちに数時間の場が終わってしまうことが多くなる。
まず喋る、という人々は、聞いて差し上げている人が、譲っているのではない、と、逆に、喋りたいことがそれほどないのだろう、と思うらしい。
これは、都合の良い考え方だが、世間に蔓延している。

喋り倒す人は、自己愛が強い。
つまり、集中欲求だ。
そして、自分についての話は、みんな面白いはずだと、どこかで勘違いしている。
根本は淋しいんだな。

その淋しさは、解消するために何かすればいい、という種類のものでもない。
それは心の奥底の深ーい部分で、満たされていない何かのせいである。
シンプルに言えば、親に愛されなかった感じとか、兄弟姉妹に対する劣等感とかなのだが、大人になろうが老境に入ろうが、その淋しさはいつも、他人との付き合いの中で解消されたがって吹き出してくるようだ。

喋っている間、みんなが相づちを打ったり、適当な返事をしてくれるのが至福の時間だ。
万が一、その間に誰かの気が逸れたりすると、また深く傷つくことになる。
何よあの人、人の話も聞かないで、失礼じゃないこと?
大方、自分を棚に上げまくって、息巻く。
深く傷ついたとき、それが自分の撒いた種だとは思えず、それをまた相手の無礼に還元して、とことん自分を守る。
これは誰にでも起こる常套手段だけれど。

そういうのが人間らしい在り方だ、と肯定するのか。
その淋しさを自覚して、人付き合いの祭のマナーに活かすのかは、人それぞれ。

でも、自分の淋しさに気づいて、淋しい気持ちに面と向かうと、驚くほど救われるのよね。




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このページは、kyokotadaが2012年5月17日 11:30に書いたブログ記事です。

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