私を「強い人だ」言う人たちがいる。
田舎から出てきて、家族のヘルプもなく子ども3人も生み育て、バンドの夫の分まで働いて会社まで作った。それで「強い人」なんだって。
そういうことを簡単に言う人にとっては、生まれつき「強い人」と「弱い人」が存在するらしい。
でも、私は強くない。
少なくとも、これまで生きてきて、私以上に正しい人、鈍感な人、ちゃっかりしてる人たちをたくさん見てきた。自分の残酷さに気づかないで、自分を善い人だと思い込んでいる気楽な人物もたくさん見てきた。
私からすると、そいう人たちの方がずっと強かった。
理屈も何もなく、自分を優先できる人たちだ。
私は強いのでなく、責任感がありすぎるのと、幸運にも体力が保ったということだ。
責任感は子どもたちのため。
私の怠惰で子どもたちの人生を損なってはならない、と強く考えた。
そのためには家庭生活は大切だった。
食事とか、健康管理とか、対人関係を育てることは大切だった。
最低限、死なない程度の収入も必要だった。
それを、体力気力の続く限り、ひとりで、必死で続けてきただけだ。
強いのではなく、とても大きい怖れがあった。
私の肩に、子どもたちが載っかっていた。
それは、誰にも頼めないことだった。
頼んでも良いと思える人が見当たらなかった。
だから、倒れないように用心しながら、懸命にここまで来た。
それは強いからではなくて、子どもたちに責任を感じていたからだ。
愛している、とも違う。
子どもたちが独立したら、淋しくなるかと思ったら、それよりもホットしたし大いに解放感もあるから、愛しているにしても愛着とは違う。
子どもたちは、生き抜く同志みたいな存在で、末の息子だけがちょっと甘ちゃんな子どもって感じ。
そうやって生きてきて、生活保護とか、公的援助とかの問題を見る。
社会保証は必要なものだ。
健康を損なって働くことができない人は保護されてしかるべきだ。
けれど、強い人たちというものは、自分の都合や立場を捏造して、罪悪感も無しに不正受給できてしまう。本当に弱い人たちは、申請することすら躊躇う。弱いというのはそういうことなのだ。社会的弱者のための制度を作れば、自分を弱者だと簡単に決めてしまえる強い人たちが、それらを利用する。
強い人は、弱い人を搾取し、弱い人はやられっぱなしだ。
心の平和とか、正義とか、謙虚とか、良さそうな言葉に閉じこめられたまま、ずっと搾取され続ける。
でも、どちらの肩を持つか、と言われたら、わたしは狡くても強い人の肩を持つかも知れない。弱い人たちは、狡くて強い人たちに仕方なくぶら下がったりする。強い人たちは仕方なく、たまには清潔を気取る弱い人たちに取り分を分けてやる。
どちらも互いが嫌いだけど仕方なくというのが可笑しくて哀しい。
社会保障の例は極端だけれど、仕事も同様に、心を鬼にしてはっきり物を言ったり、叱ったり、主張したりしなくてはならない時がある。
意地悪とか難癖ではなくて、実務のために嫌われるようなことを言わなくてはならない。
そういう姿を見て、非難したり、ちゃかしたり、揶揄したりする「弱い人たち」もいる。
人は悲しいな、と思う。
ひとりずつの心の中を見ると、結構悲しくて情けない。
強そうな人も弱そうな人も、角度を変えると別の顔が見える。
でも、それで社会のバランスが取れているのだろう。
強がりの淋しさと、弱そうな甘えんぼ。
人はいつもちょっと悲しくてかっこ悪い。
そんなことしなきゃいいのに、ってことばかりする。
それを忘れないでいたい。
人を単純化しないで、あなたも私も一筋縄ではいかないわよねと、情けなく笑い合いながら、しっとりと生きていたい。
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