ジャズとひとことで言ったって、ものすごく色々な種類がある。
歴史を辿ると、変化してきた音楽スタイルが多様にあって、現在生きる人々は、それらの中から好みの物を選り分け、吸い取り、アレンジして、自分の好みを確立する。
聴く立場なら、「今日の気分」で差し支えないが、演奏するとなるとそうはいかない。自分の嗜好や志向や思考と徹底的に向き合わねばならない。自分が何に対して特別な反応を見せるか、そして、何に対して特別な快感を覚えるか、さらに、自分の演奏技術ならば、それらのセレクトに対してどのようにアプローチするのがベストなのか。
それで、一回毎のライブに、「これだ」という物を注ぎ込むわけだが、それでも隣の芝生が気になる。隣でフリーをしていたり、インプロをしていたりすると、私の場合、なぜかちょっと負けてる気持ちになる。この劣等コンプレックスは多分、のびのび育てなかったことに対する忸怩たる思いに違いない。
いつも理屈とか正当性を要求される環境にあって、理論武装ばかり育ってしまったから、例えば他人の目で自分を見ても好きじゃないだろうなぁ、と思ったりしていた。
時には、私は私なんだからこれで良いのよ、と思うが、それでもインプロとロックとかの人々が、我を忘れて自分全部出し的に稼働しているのを見ると、羨ましいな、と思ってしまう。でもやってみたくても、自分にはぜんぜん似合わないことだ。
では、自分全部出しを見ていて必ず楽しいかとというと、それもちょっと全面的肯定はしかねる。ちょっと恥ずかしいことが多い。なので、フリーとかインプロで感心させてくれる人は大尊敬してしまう。ただし、そのように育てて貰って良かったね、とも感じる。
歌でいえば、ビリー・ホリディとかチェット・ベイカーなどは、参考にできない人々だ。彼らのように歌おうとしてはいけない。いつの間にか、知らず知らず、彼らの感じが少し醸し出せたというなら良い。でも、真似てはいけない。なぜなら果実は天から頂くものなのだから。
沢山の生徒さんを教えていて、あるいは様々なプレイヤーと共演し、レコーディングしてみて、結論は「何だって素敵さ」なのだ。どんな演奏にも人生が詰まっている。悩みも怖れも哀しみも、意欲も傲慢も自信も、何だって詰まっている。そしてポジティブだけでは音楽は成り立たない。人にある全てが必要なのだ。
色々あっても、演奏している人たちは何やったって、何だって素敵さ。
そして音楽でコミュニケーションするのはもっと素敵なのよ。
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