テレビがマニエリスム?

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時代区分的な文化に対する命名は大体が後世に行われるもので、ルネサンスにせよバロックにせよ、当時の人たちは自分たちのしていることがそういう分類になるとは知らなかった。

はっきりとした時代背景や経済革命などに支えられた革新的な文化が生まれ育つと、後世ではそれの特徴を名指すことにするのである。歴史を見ると、名付けられるほどの時代的地域的文化は、発想され発展し、爛熟して終わる、ということが見える。
はじめには革新的だったアイディアが、過剰な供給に突っ走り、継続のための工夫とされる差別化に狂奔し、しかし刀折れ矢尽き、陳腐化して廃れるということ。

今朝、テレビのワイドショーをつけながら弁当制作をしていて、今の地上波テレビって陳腐化して廃れる時点だな、と感じた次第。

まず、タレントの声が変。
アニメ吹き替え声というのか、耳が遠い人にも良く聞こえるような喉声。
そして話題が変。
料理の残り物をリメイクとか。
鍋残りをグラタンにする、って。
別におじやで良いんでね。
出演者の服装も変。
奇抜であれば良いとか、斬新であれば良い、というのがテレビ文化ではあるけれど、すでにレパートリーもデザインも出尽くして、組み合わせの妙あたりに落ち着いている。が、その意図や落としどころが、ただ「かわいい」のひとことだけのためであるのはわりと淋しい。

まとめると、変な声のタレントが変な服装で、変な料理を食べながら、どうでも良い楽屋話をするというのが朝の番組企画なのである。

予算としがらみに染め上げられた、企画のための企画。
時間枠とスポンサーのためのルーティン。

ルネサンス文化は、発展が行き詰まった頃からマニエリスムと呼ばれる段階に入る。
装飾過多だったり、極端なデフォルメだったり、それはそれとして見処もある訳だが、やっぱり少しあだ花っぽい。
清新な感じはしない。
人間ってこう行っちゃうよね、むふふ、みたいな自嘲含み。

何かの流れをそのまま継続させようとするだけで、人間の働きや考え方はずんずん陳腐街道を進んでしまうみたいなんだ。
それで自分の首を絞めてたりする。
私も気をつけなくちゃ。

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このページは、kyokotadaが2012年11月27日 12:14に書いたブログ記事です。

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