こころというものがあるとして、それを自覚しているのは脳みそだ。
「脳科学」とかいうと、むつかしい。
脳みそと言うと、少し自分のもののような気がする。
脳みそは、昼間いろいろと働いているが、寝ている間にその昼間の情報を処理しているらしい。それをしないと、こころが異常になってしまう。
夢を見たり、深く眠ったりして、ランダムな情報をその人らしく整理し、落ち着きどころを作って次の日になる。
その人らしく、ということの中身がまた様々で、どれほど様々かという数だけ本が書かれ、音楽が作られ、絵が、彫刻がインスタレーションが、パフォーマンスが...、ということなのだと思う。
研究したり、整理したり、工夫したり、今日より明日がより良くなるように、あるいは今日より明日が悪くならないように、そこそこ頑張っている。
私が人生で一番びっくりしたのは、弟に死なれた後、歌うと吠えるみたいになってしまったり、歌詞を忘れたり、感情が無くなった感じがした時である。
普通に歌おうとするのに、慟哭みたいに吠えるような声が出てくる。
心の中に怒りが渦巻いていると、そのまま、声も叫びになる。
いつもと変わらない気持ちなのに、歌い出すと歌詞が思い出せない。
そして、ほとんど飲めなかったお酒を、ためしに飲んでみても酔わない。
周囲から見ると酔っていたらしいが、私自身は酔った感じがしなかった。
状況を知らない人、あるいは知っていても私の状態とそれが結びつかない人たちは、私が不真面目だと思ったらしい。ちゃんと仕事しろとか叱られたりした。
その時、頭の中で何が起きていて、それが私の心をどのように守っていたのか。
周囲から見て、いい加減で不真面目そうな時、私は傷つきすぎて、普通に仕事も生活もできなかったらしいのだ。
それでも、普段と変わりなく、何かしなくてはと考えていた。
悲しいと泣いても、辛いと叫んでも、何も変わりはしないし、そういう行為で周囲の人に被せるには、事はあまりに悲劇的だったのだ。
あの頃の、冷たくて深い水の底に沈んでいるような、不思議な感じは今はもう無い。
水底にいて生命活動が冷えきっていても、その中で、少しずつでも回復しよう、もとに戻ろうと願い、時が経つのを待っていた気がする。
私の家族がいるし、友達もいるから、少しずつでも元気な方に目を向けようとしていたような気がする。
泣いてかき口説いて恨みつらみを語ると、いつまでも脱出できないような気がした。
言い訳もしない方が良いと思った。
負荷の多い人生では、つい、それを口実に拗ねたりする。
けれど、拗ねていると、結局自分もつまらない。
ほら吹いて、強がって、力を出そうとしていると、少し回る。
本当に、少しだけれど。
でも、それで良いんじゃなかろうか。
負荷を引き算してゼロになるくらいは、プラスを作っておかないと、ね。
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