古い映画を見ながら

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人は一人ずつ、色々な顔なはずだ。
それが、最近は皆似ているように見える。
いやいや、似て見えるのは「役者」の人たちだけかも。

役者と呼ばれるジャンルにいる人たちが、同じカテゴリーの外見になっている。
そこから外れる人は、お笑い。
あまりに同じ顔つきの人ばかりなので、たまに「個性派」と呼ばれる役者が脇役として採用される。彼ら、彼女らはお笑い系か、舞台、劇団に所属する人々。

大河ドラマを見ていて、みんな同じようなカテゴリーの顔なのは良くないな、と感じた。
眉目秀麗ってやつ。

昔の映画は、顔や姿だけで、人物像が半分くらい理解できる強者揃いだった。
背丈、体つき、顔の大きさや造形。
そのはっきりとした美醜と表情で、筋など関係なく人を見る楽しみがあったように思う。

今は、もれなくご清潔で、業界人の好きなひとつの価値観の中にまとまっている。もちろん、細かく観察すれば美しさの中にも違いがあるのだろうなぁ、とは思うが、それでも似たような個性ばかりが、ひとつ画面の中で別の人格ですと証明するために台詞を喋っているように見えてならない。

俳優、女優として成立する人材を抱える事務所の価値観が、おおむね似通ってしまった。
あるいは、ごく若い頃から、同じような訓練を受ける中で切磋琢磨し、役者自身が自分をそのように作り変えているのか。個人ではなく、チームでの創作物。

サクセスストーリーというものがあれば、それをなぞる方が安心かも知れない。
指導も学習も、事務所も映画のナントカ組も。
でも、その前に個人はどうなったのだろう。
それらの一連が手段でしかないと、自分のすなることこそが最終目的だと、はっきり決めている、あるいは決めようとしている人材が少ないのだろうか。

現在見て感心する昔の個性的な役者たちというものは、どこからどのように発生したのだろうか。動乱の昭和に生きただけで、あのような面構えになったのか。それとも、監督が大勢の群衆の中から彼らを見出して、説得して引きずり込み、育てたからなのか。

見出す眼力の側が変わったということだろうか。
それとも、役者という立場が、今のような輝かしい職業なんかではなく、どちらかといえば尻込みしたいものが、周囲によって必要だと要請されてついに「あたしにゃこれっくらいしかできるもんがありませんや」と諦念した後に成立した時代だったからなのか。

映画を作る世界は、それなりに狭かったと思われる。
狭くこだわりのきつい、その業界内で小難しい職人たちにだけ支持された技芸というものが必ずあったはずだ。
テレビによる製作の大衆化ということが起きる前の、職人たちによるひとときの幸福な製作環境。そこでしか生まれ得ない美しいもの。

そのような環境世界を、意識的に、維持することはできるのだろうか。



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このページは、kyokotadaが2013年1月15日 12:09に書いたブログ記事です。

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