ホロヴィッツがモーツァルトのたしか23番のコンチェルトを演奏するドキュメンタリーがあって、第2楽章を「これはシチリアーナなんだ」と、何度も言う場面がある。
シチリアーナとは、「シチリア風」という意味で、シチリア島独特のセンチメンタルが感じられる曲のことだ。郷愁というか、懐かしさというか。ポルトガル語ならサウダージのような。
音楽史によれば、音楽は他意の無い音遊びから始まって、次第に音の連なりを利用して、そこに何らかの意味を込めようとする欲求に利用されるようになる。教会音楽は神の顕在を示そうとしたし、吟遊詩人はメロディに乗せてロマンスを語った。オペラは当然物語そのものであり、その行き過ぎに辟易した作曲家たちは、一方で何の意味も込めない、ただ純正な構成感を求めて交響曲を考案した。
しかし、いずれにしてもそれらには人の感情や自然に訴える、あるいは挑戦的に感情をかき混ぜる何らかの操作意図がある。操作という言葉が悪ければ、演出それとも編集。
人の頭脳は放っておくと加熱するし、妄想する。いずれ、その程度が極端であれば解説なしに理解させることはできなくなる。戦略的な解説を付加するか、編集して理解しやすくするか、薄める演出をするかである。
クラシックやジャズは、音楽のほとんどの要素を含むために、作曲家や演奏家に過大な要求をする。その余り、ついには編集の収拾をつけられなくなる事態を引き寄せがちだ。
聴く側の感じで言えば、作曲家や演奏家の意識が、ごく私的な、悪く言えば自己満足の次元に集まってしまっているかのような印象。
自己満足と言っても、音を紡ぐ当事者だけでなく、「ワタシ」には正しく理解できる、と宣言する「コア」なファンというものも存在して、あたかもカルト的な一種訪問しがたい世界に閉じてしまう。
例えば、コンセプチュアルアートなども似ている。事前に予備知識として、何かをどこかまで積み上げないと理解できない作品群。何をどこまで積み上げるべきかについては、部外者から見ると、それこそ神経衰弱ゲームのカードのように伏せられているので、いきなり作品を突きつけられると呆然とし、ルールを知らないでいる自分を持て余したりする。
アートがそこまで来たのは、教養主義のダブルバインド、二律背反があるせいだろう。異端でありながら、特権という、どちらに転ぶのが良いのか判断しがたい局面。アートを鑑賞する場面で、その思いは人を宙吊りにする。
背を向けて去る人と、果敢に入り込む人がいて、それぞれ、好きだから嫌いだからという理由だけでなく、その教養主義に配慮する必要性を天秤にかけている。そしてその行為を決断する時には、恐らくこれまでの記憶を手がかりにしている。「ワタシ」は、どこかで接した、何かを良く知っていたあの魅力的なあるいは誘惑的な人に、この後なりたいのか否か。
音楽に於ける情緒や物語に対しても、近づいた人々のとる態度はまちまちで、その片鱗が見えた途端に後ずさりし、「純粋音楽」こそ正しいと叫びながら走り去る人もある。彼らの記憶では、自分の感情を出すのはスマートでない。
ところが一方には、その感情に必要以上に取り入って、ためつすがめつ膨らませて、情緒過多のお腹いっぱい状態を堪能しようとする態度もある。
どちらが好きなのか、の理由について、しばしば考えを巡らす。
つまり、まだはっきりと芸術や芸能がどのように棲み分け、人に働きかけ、何をもたらしているのかを、明確にしようとする必要には差し掛かっていないようなのだ。
今はただ、遠大に広がった地平に膨大な量の「情緒」と「理論の積み上げ」が見えるだけ。そしてそれらの途上で、自分のとどまる位置、守備範囲を日々探ってみるだけだ。
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