「今年は書くぞ」って、もう充分書いてるでしょ、と言われそうだが、考えたいことがあり、それを腰を据えて書きたい、と思っている。
書きたいこととは、やはり、音楽のこと。
暮れにうちのレーベルのディストリビューターと現況分析の話をしていた。
私より少しだけ上の世代の、まさに日本のレコード商売の生き字引のようなその方は、パイドパイパーハウスにも、タワーレコードの立ち上げにも関わっている。長年ジャズ・レーベルを持ってユニークな制作を続ける傍ら、ヨン様の韓国ドラマ関連で大当たりした経験もあるそうな。私がミュージシャン出のプロデューサーで商売っけ無しだとすれば、商売優先の考え方もできる方。
けれど、話していて私も彼も、あの時代の熱と気分にノスタルジーが横溢しているのを感じた。あの時代とは、まさに70年代である。
60年代後半のウッドストックやビートルズ文化に端を発したサブカルによる文化革命。
日本にすらヒッピーがいて、小劇場演劇があって、雑誌がオピニオンリーダーであり、サブカル文化人が生まれた。今で言えば、キクチナルヨシ的な人がどのジャンルにも、いっぱいいたと思って頂きたい。
生き字引氏は、その頃を思うような、遠くを見る目で「今はジャズ界に良い評論家がいない」と呟いた。
それはそうなのだ。
オピニオンリーダーがいない。
というか、いてもメディアごとに棲み分けていて、別メディアにしかアクセスしない人には姿も見えない。
つまり、モザイク状の世界。
そのように、現況はかつてと大きく変わっている。
私の知る範囲では、音楽関連でマス・メディアに変わるものはU tubeだし、Twitterだ。
そこで、ミュージシャン自身がどんどん発信している。
自由はあり、闘いは無い。
かつては若者たちはむやみに戦いたがっていた。
学園闘争もそうだが、自分がどこに立っているのかを、懸命に、というか必死に探らなければならなかったのだ。そして、メディアを陣地とした場所取り合戦があった。
敗戦を機に一時廃墟になったも同然の思想、文化の地平のどこに自分は立ちたいのか。
我らの陣地を作るぞ、というような、近代的な闘争意識があった。
その後塵を拝した私たち世代も、彼らの熱気と切実さに打たれていた。
たくさんのミニコミ、そして仲間と思えるアーティスト、書き手、描き手、写真家、デザイナー、思想家、学者、音楽家、演劇人、料理人...。
次々と紹介される稀なる人々は、新しい私たちの先導者だったし、全く新しい、人種的な劣等感すらぬぐい去ってくれるような、確実な何かを創り出せして行けるような輝かしい予感を抱かせた。
そして、今日まで、私もそのごく端っこに連なって、音楽やら出版やらに関わってきた。
時代は変わっている。
そして、分からないことばかりが、まだまだ山積みになっている。
過去の検証はさて置いたとしても、これからの私にとつてミニマムなジャズの世界。
私の好きな、私の生活をかけても続けたい音楽のこと。
それがやや見えない不安に駆られている。
見えない、ということの中身は、将来的な展開の予測が立たない、下の世代の音楽自体が理解できない、音楽産業の成り立ちと変化が予測できない、音楽の存在価値が分かり辛い、などなど。
言葉にできていない、まだこれら以外のこともアナライズすれば出てくるだろうし、生きて関わる限り、自分の中で起きる思いや欲求は再構築の連続になるだろう。
それらのことを、ひとつのトピックごとに、深く考えていこうと思う。
と、大上段に構えるのも、新年だからに他ならないが。
今年は、「書いて考える、書きながら思考する」年にしたいと思い立ったところだ。
次回は「音楽の快楽」について。
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