拍動によるトランス

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マイケルのビートが鳴ると、零歳児でもそれに合わせて身体を上下させるのを見て、これはもう、人間の基本的欲求なのだと得心。
つまり、連続的な拍動の繰り返しが人間の心をくすぐる。
胎児は母胎の中で母親の心臓の鼓動を聴いている。だから、それに似た音を聞かせると誕生後でも安心して眠る。
ロック・ビートでは、ベードラの音とかエレベの音と同期できると気持ちが良い。
果たして、それらと自分の何とが同期しているのるか、というところがミソなのだが、勝手な想像では、多分心理的な迷妄状態への嗜好だろうか。
音を聴き続けることで、幾分現実から遠ざかる。
酒もドラッグもその辺は同じ。
心理学的にいうと、タナトスの方向だろうか。
そこに強い快楽があるのは、人が無から生まれて無に帰って行くからに違いない。
「無」は故郷なのだ。

もっとも、ここで言う「無」はごく抽象的な話であり、科学的には地球上に存在する分子の数は太古の昔から一定で、ただ所属する対象が変わるだけだと言うから、「無」の概念は分子側にではなく、所属対象の方になる訳だが。
所属対象が人間である場合のみ、そこに記憶とか思考とかかが発生し、タナトスの出番となる。エロスとタナトスはごく原初的な人の実感だ。例えば実存とか生きてる感じとかを裏表で言い表す。
エロスは「生」に寄り、タナトスは「死」に寄る。

死んだような感じがなぜ気持ちいいのか。
死ぬというより、生きてる感じが緩む時と言い換えようか。
同じ拍動を長時間聴き続けると、トランス状態になる。
その拍動が不快な音源であってはならないが、「良い音」であれば、人はその中に自分を埋没させられる。
一時的に音の世界の拍動と自分とが同期する。
次第にうっとりしてくる。

この効果を用いるのが、読経とか念仏とか。
アフリカの人々などは一晩中一定のリズムで踊り続けるし、阿波踊り盆踊りのテンポも昔からずっと変わらない。
ここには、人の生理も関わっている。

そこで私はいつもテンポの講義の時、生理的なテンポに近づけて感じる練習をさせる。
スローテンポはそれを分割した、中にあるリズムを感じ、アップテンポではいくつかの拍をまとめた単位で感じさせる。
音楽で用いるテンポは、人の生理に可能な範囲にあるので、その解説をすると大分納得してもらえる。

心拍や歩く、あるいは走るリズムと似た速度の拍動。
それをいくつか組み合わせてひとつと感じるか、微分して区切ってみるかのいずれか。

そして拍のまとまり、例えば2拍子3拍子などを感じるのは、すべての拍が均等でなくどこかにアクセントが置かれるからだ。その多彩なアイディアの元は馬のギャロップや労働のリズムの中に聞こえる。
いつか、酒蔵の杜氏が酒をかき混ぜながら唱和する民謡を聴いた。
そこには、西欧的な時間を区切る拍ではなくかき混ぜる動作をまとめるための拍があった。杜氏は、歌がうまくないと一流でないそうだ。素晴らしい価値観。

こういうことを考えていると、巷で受け入れられている音楽や演奏している人々の内面の快楽というものの姿がおぼろげながら見えてくる気がする。
生理というものは、生まれつきと、その時点の環境による後天的なものと、年齢や地域性などが絡まり合っているので、どのような音楽を快とするかは人により様々だ。
けれど、まず最初に人々が音楽の中に聴くのはテンポでありリズムなのだ。
それが、その時、刺激的であるか心地よければ、次にメロディーに耳が行く。
残念ながら気持ちがついて行かない時は、我慢して聴き続けるよりは、やれやれという感じで音を消す方を選ぶのである。




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このページは、kyokotadaが2013年1月10日 11:01に書いたブログ記事です。

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