Jazz Vocal Cafeを再開して、新しい参加者も交えて発声の勉強をした。
これまで歌ってきた体験、生徒さんたちにリサーチしたこと、専門家向けのセミナーなどで集積したあれこれについて、ポイントを出しながら網羅して行く。
教える、ということはやってみるとどこまで行っても完成しないし、止まることが無い。
その都度、その時に持っている最高の知識や方法論を伝授するのだが、根本は同一ながら、その行為に導くための表現や、やり方は一回ごとに変わって行く。
自分の進歩なんて、もうこの年になるとほとんどないも同然なのだろうが、そういう時に「教える」という行為がどれほど頼みになるか知れない。
何もしていない間にも、心のどこかで、あるいは無意識の底で、より良く伝えたいという「欲」が醸成され続けている。
生徒さんたちを前にして、どうにかして上手になって頂こうと励む時、その「欲」のエッセンスみたいなものが全面にワーツと出て来る。
それは、ライブだけしている時には出てこないものなのだ。
ライブのときは、メンバー同士の化学変化みたいなことは起こるけれど、自分の中の醸成されたものがにじみ出して来る、という感じではない。
もっと、瞬間的で、脊髄反射的な作用だ。
しばらく病気で療養されていた指揮者の小沢征爾さんが、指揮を休んでいる間も若い音楽家を指導していたという記事を読んでとても納得する。
どんなマエストロも、教えたがりである。それは、自分の中に育つ伝えたいものが、指揮という表現だけでは消化しきれないからではないだろうか。
演奏は、一過性のものだ。過ぎたことに対して、あれこれ考えても仕様が無い。けれど、あれこれ言わずに済ますためには、そこに至るまでの掛け値の無い工夫努力が必要なのだ。工夫努力が無いと、何をやってもつまらなくなる。意味が無い感じがする。つまり、その一瞬に向けての飽くなき「欲」が活性していないと、つまらなくなる。
それで、日々楽譜を作ったり、色々なキーで歌ってみたり、コード・チェンジを試みたり、オリジナルに取り組んだり、発声について工夫したり、調べてみたり、良いアーティストを聴きに出かけたり、と色々やる。
そのことは、頑張ってやっているというより、一日のほとんどの時間をこれらのことに費やすために自分に都合の良い時間の割り振りを編み出しているような感じだ。
教える時には、分かったと思うことを伝えてみて、実践してみてもらって、有効か否かを確認しつつ、改善しつつ、工夫しつつ、諦めずに続ける。
身体を楽器にして行く方法論は、どこまで行っても難しい。何となく、武道に一番近いかも知れないと思う。
武道は、年齢が進むとその体力に見合った術が次々身に付いて行くらしい。若い体力には無い、別の次元の「強さ」というものが身に付いて来るらしい。それが、歌の場合にも実現できはしないかと、このところ何となく考えている。自分が年を取って行くことと、歌がどうなって行くのかをじっと観察しながら進んで行くみたいだ。
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