以前、広告批評という雑誌を好きで良く読んでいた。
橋本治のコラムが連載されていたからだ。
日本の国について、その政治や文化について、私など到底思いつかない視点で批評していた。知性とは、こういうものかと思った。
平行して、中沢新一を読み、この数年は内田樹も。
この3人は、似たような時期に東大生だった。掛け値無く、東大に行くような地頭の良さが感じられる。驚くほど思考する体力がある。
橋本治は、編み物やイラストもものすごく上手。
そして、現在から古典に至る、時間の幅の手玉に取り方が凄い。
そして、その真ん中には、「にんげん」がある。
『巡礼』という長編小説は、ゴミ屋敷の主を真ん中に据えて描いてみせる戦後史だ。
男女のこと、家族のこと、時代の変遷とそれに伴う経済の波。ただ為す術も無く洗われ、押し流されて生きる市井の人々の姿。
文明とか文化に振り回されて我を忘れ、というか、初めから我など無く、ただ明日を生きるために為すことによって次第に擦り切れ、理由も分からず呆然とする様が、様々な人の有り様を通して活写される。
働く、異性を欲する、家庭内の立場を守る、無為に他者を攻撃する、行き詰まって呆然とする、打開を目指して何かをする、しかしそれは、とてつもなくおかしな行為だったりする。
私たちも、そういう人間たちのひとりだ。
橋本治は、そのことを糾弾するでも無く、批判するでも無く、ただ淡々と、愛情を込めて描く。誰にも他意は無い。ただ、自分が何とか生きなくてはと思うだけだ。けれど、その手段は、別の視点で見るとはなはだ理解に苦しむものとなる。
家族や同僚を持てば、誰もがそれを知る。
家族であろうが、他者は私ではない。
そして、私ではない人々の切実を、どこまで理解できるのか。
私自身も生き延びなくてはならない。
その余力を、どこに、どうやって残しておけば良いのだろうか。
目の前の難題だけでなく、行方の知れないこれからに向かって、人は呆然としたり、小賢しく知恵を巡らせたり、よかれと思って頓珍漢なことをする。
誰も、自分だけはそうではない、と断言などできない。
その、本来の人の姿を、曖昧に行き暮れ、しかし、必ずどこかに救いを残す人の姿を、残酷にも暖かく描いた素晴らしい小説だ。
私にとっては、己を知る良い導きになった。
コメントする