「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン

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来日が1974年というから、私が上京した1年後。
同じ頃に、日本での音楽シーンにどっぷり触れていたことになる。
だから、何となく、いつも読んだり見たり、聴いたりする場所にいた。

これは、来日してからこれまでのDJ人生を語った本。
そう言えば、バラカンさんがナビをしていた深夜のCBSドキュメントも見ていたなぁ、と思い出す。

ラジオ番組の成立の仕方。
スポンサーと番組の命運。
他の仕事への取り組み。
いつもお手本にしていた、尊敬するイギリスのDJの存在。
そして、埋もれているけれど、読者に勧めたい珠玉の曲の数々。

音楽は、メディアから流れ出しながら、とても個人的なものでもある。
セレクトする人の嗜好や趣味、必要性がまちまちだから。
バラカンさんの音楽へのこだわりは、私自身や周囲のミュージシャンたちと重なる。

ある時には、リクエストにお応えして不本意ながらオン・エアを始めてはみたけれど、どうにも我慢できなくて、途中でフェイド・アウトしてしまった曲の話など。
私自身、聞きたくない音を消すタイプなので、とても理解できる。
聴く時は全身全霊を傾けて集中している。
大好きなはずの音楽でも、その日の体調や気分によって、セレクトしないものもたくさんあり、あーーー、今何を聴きたいかなぁ、といつも自分に問いかけている。

先週は、グルダのモーツァルトばかり聴いていた。
今週は、何も聴かない。

若い頃は、かっちりとアレンジされ、たくさんの楽器を使ったコンセプチュアルな音楽が好きだったけれど、今はアクースティックが好きだ。この「アクースティック」という書き方は、バラカンさんの方法。英語をカタカナにする時に、発音に近い表記をしている。例えば、ダニー・ハサウェイは、「ドニー・ハサウェイ」。

この本を読みながら、思いついたこと。
こだわらざるを得ない耳や感性を持った人と、そうでもない人がいる、という事実。
こだわる人たちは、互いに知り合い、認め合い、教え合い、助け合っている。
そうでもしないと、楽しみすら成立しない。
つまり、こだわる人の絶対数が少なすぎて、経営的に難しい。
バラカンさんの番組も、マニアックなファンに支えられてきた。
だから、終了すると継続願いの署名活動が起きたりする。

こだわらざるを得ない人々は、それに見合う番組やリーダーがいないと困る。途方に暮れるのだ。食べ物でいえば、ジャンクフードや実用的な食堂しか無い世界になってしまう。
もう少し、繊細で感性に沿うものを提供してくれる、あるいは、そういう受容者がいることを分かっている送り手がいないと、途方に暮れる。
だから、自分の感性のこまやかさに気づいた人々は、それを満たしてくれるものを懸命に求める。

その数は、全体から見ると少ないようだ。
その証拠に、彼ら向けの番組や雑誌はすぐに中止、廃刊になる。

それに反して、そこにあるもので、満足できる人々もいる。
より良いものを見たり聴いたり食べたりすると、その良さは分かるけれど、さほど良くないものでも、それなりに楽しむこともできる。
じつは、そちらの方が普通で、彼らこそがヒットを作り出す「マス」なのだ。
鈍くはないが、程よい感度の受容アンテナ。

私は、自分が音楽を聴いていて、イライラしないことを望む。
専心して聴きすぎるせいだとは思うけれど。
おまけに、いつも食べる朝食の材料が無くて、その辺にあったレトルト食品を食べたら、二〜三日、お腹の調子が悪かった。
そのように、何でも食べることすらできない。
嫌いな話を我慢して聞くと、血圧が上がって吐いたりする。
これは、わがままとかではない、と思う。
そのような感性の人もいるということ。

バラカンさんも、きっとそのタイプではなかろうか。
自分が好きな物の価値を、時々は自信を失いながらも、また思い直して、「これが良いです、良いと思います」と発信し続ける。
それしかできない。
自分の感性や音楽全体に対する律儀さ、生真面目さを大切にする、そういう人なのだろうと強く感じた。
バラカンさんのラジオ番組のお陰で、日本のリスナーは多いに助けられてきた。
私も遅ればせながら、この本に紹介されている未知の曲を探し始めようと思う。

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このページは、kyokotadaが2013年3月22日 12:17に書いたブログ記事です。

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