クリシェじゃないこと

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クリシェというのは、慣用句という意味らしい。
良くやる手、みたいなことかな。
音楽だと、コード進行に用いたりする。

昔のスティーヴィー・ワンダーを聴いていると、何ひとつもクリシェではないことに感心する。
コード進行も、バッキングの構成も、曲の構成も、イントロもアウトロも、何かそれまでの「こういうもんで、ひとつよろしく」、という行き方を全然導入していない。
きっと、何となく楽器に触っているうちにいい感じのフレーズが始まったので、そのまま進めて行くうちに曲の骨格ができ、あるいは曲の肉付けができ、それを発展させ、保存しておいてさらに付け加えたり、時には引き算したりして「それでしかない物」が出来上がる。

ありがちな進行とか、馴染みやすいサウンドとかではなくて、そのとき初めて生まれたものをそのまま壊さずに育てる。

テレビで見た、仏像の絵に取り組んでいる高名な画家が、「描きすぎないようにしなくてはならないのです。筆が走りすぎると絵が駄目になる」様なことを言っていた。ぎこちないとか、迷い迷いとか描いている時の方が、後で力が出る、とか。

歌っていて、すらすら上手く歌える時、自分にシラケることがある。それがなぜなのか分からなかったのだが、多分、楽器でいう手癖とか、言い換えれば、技巧的なクリシェに頼ってしまったからだろうと思う。それがなぜいけないのか、理屈では全く分からないのだが、気分として、どこか狡いことしているような、後ろめたい気持ちになる。チャレンジが無いというか、気が抜けているというか、テンションに直面していない感じ。
直面していて瞬時のセレクトで出たフレーズと、馴れで出たフレーズとは、同じ音列でも必然性やスリルが別の物のようなんである。

若い頃に毎日のようにバーやクラブの営業仕事をしていた時に、他のことを考えながら歌えていたことがあって、凄く嫌だったのを覚えている。ルーティンの怖さ。

何をする時も、クリシェじゃない方法で、とか、慣れていてもルーティンにならないようにと、心のどこかで点検している。

ただし、ルーティンというのは、別の面では重要な価値を持っていて、集中したい仕事があるときは、衣食住など生活の細々に関してはルーティンにした方が良い。同じ服を着て、同じ物を食べて、同じ道を歩く、とか。リスク管理ということかも知れないが。

そして、気力を尽くして、仕事に関しては直面し続ける。
いつも新しく、未知のものとして。
経験値は今からを展開するために使う。
未知の明日、私はどうするべきか、それを考えるのが醍醐味みたいだ。

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このページは、kyokotadaが2013年3月25日 17:32に書いたブログ記事です。

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