人と人が分かり合うってどういうことなんだろう。
「共感的理解」という専門用語がある。
よく営業マンが口にする「そそそ、おっしゃる通り」というのもある。
いっぱい話して、しばらく経って、ああ、なんか通じたかもなぁ、と思うこと。
時には、そのように話そうとしても、お互いが別の世界にいたりして。
人は自分を認めてもらえたり、安全だったりする場所を欲する。
だから、それと違うとむっとしたりする。
けれど、だれひとりも、他人の欲求に合わせきってやろうなんとは思わないだろう。
思わないのが良い。
思う時には、別の、下心みたいなものが介在しているはずだから。
人は、だから基本的に放っておかれる。
放っておかれるのが当たり前な状態だ。
好かれて、例えば異性に好かれすぎて、その人の妄想界に適応せよと迫られたら、すごく不快だろうな。
離れてくれ、遠くへ行っといてくれ、と言いたくなるだろうな。
でも、余り放っておかれると、淋しい気持ちになる。
それで、行きつけの飲み屋とかに行く。
知っている人がいて、家族の薄いもののように、付かず離れず、好きな時だけ、好きなくらい一緒に居る。
それはそれでも良いんだが。
淋しすぎるためか、わーわー騒ぐ人が必ず居るんだよね。
いったい、人はどんなだと気分がいいのだろうか。
誰かと喋るのは楽しいかも知れない。
ただし、喋り倒される恐れもあるので二の足を踏む。
たまに、程よく語り合って満足できると、これはすごい、と感じる。
その、互いの「適当」さが素晴らしいと感じる。
適当って、ちょうど良い感じということなんだ。
「適当」がバランス良く釣り合うと気分がいい。
ただし、それはとても稀なことだからね。
分かり合うって、もしかするとコンテンツではなくて、そのバランスのことかも。
今はヘヴィはよしておきましょうね、とか、本日はガツガツ行きまっせ〜とか、その加減が伝わり合うこと。
分かり合うって、そのことかも!!
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