2013年6月アーカイブ

以前にも書いたけど、私は色々な場面で色々に見られていて、まとまっていない。
誰でもそうかと思うが、極端な気がする。
出身地の北海道余市町には、中学まで、高校は小樽市、大学は東京だ。
そこまででも、付き合う範囲が途切れている。
実家は、私が結婚してすぐくらいに余市を引き払って札幌に引っ越し、今は余市にも札幌にも家がない。

私自身は、仕事で一貫した顔が無く、ボーカリストとしての付き合いと、ライターとしての付き合いと、レーベル仕事での付き合いがあり、ご近所の方たちや、子どもたちの友達の親関係でも、それらのいずれかの活動を知っている人すら限られている。
もちろん、全体的に知っている人もいるが、多分、数人しかいないのではないだろうか。

それをまとめなくてはならないかな、と感じて、近々ホームページをその路線にすることにした。ツィッターでもフェイスブッでも、あまりまとめた自己表現をしないので、ビジネス的には効率が悪い人なのかも知れない。

でも、自分を表す時、仕事路線に偏ると嫌悪感が沸く。
その原因は何なのだろうか。
自分のイメージを固定したくないのだろうか。
それとも、統合するのが下手なのだろうか。
あるいは、シャイであるとか。

もう少し、取りまとめてから引退したいので、そろそろそう致します。
もう、恥ずかしがっていてはいけないかもね。

ゴーーッと...

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自分が生きてきた、ほんの数十年のことを基準にして、それが永久不滅のものだと信じたり、変化を拒んだりする。
今まではそれでも良かったのかも。
でも、じつは世の中はいつもいつも変化している。

少し前から、変わるんだな、と確信してきた。
一番大きいのは、アフリカ。
アフリカはいつになったら平和になるのだろうか、と案じていたら、この数年で激変している。それは人類にとって素晴らしいことだ。

世界が、ゴーーッと音を立てて変化している。
今までのことはいったん棚に置いて、新しい考え方を摑まえた方が良い。
新しく考えようとする行為こそが、大切だ。

困ったちゃんは、現在のところアメリカの投資銀行だよね。
サブプライムローンもそうだったけど、次はシェールガス田の土地ころがし。
いけません。

経済が違う生き物になってくれたら良いのに。
世界がフラットになって、地産地消で無駄が無く、本当に大切な植物の種とか、自然とか、人々の心の安定とか、そういうものを大切にするようになると良いのに。

でも今、世界中でそのことに気づいて、経営でない経済が始まっている。
音を立てて。
人は本来、もっと平和な生物なんだと、みんなが思い出しはじめているみたいだ。
平和でなくなった時からの歴史ばかり見てはいけないね。

団結できない

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心理学の難しい本を読んでいて、その端書きに、心理学者が連帯できない旨が書かれてあった。連帯して臨床心理士の地位確立などに努めねばならないが...。
ならないが、しかしできない。
それは「団結」である。

そう言えば、ジャズミュージシャンも、見事なばかりに団結できない人たちである。
人の悪口を言う。
下手だとか趣味が悪いとか精神性がないとか。
では、仲間意識はないのかというと、ある。
彼らには人は二種類しかない。
ジャズをやる人と聴く人。
ジャズに関わらない人々のことは、そもそも眼中にない。

心理学者も似てるなぁ、と思った。
臨床家と研究者は仲が良くない。
そして、彼らの考える人々というものは、心理学関係者かクライアント。
それ以外の人々については、ざっくりしている。

いずれも、決して団結できない人たち。
そして、団結できないのが個性みたいなふたつの団体に足を踏み入れている私。
イヤなニンゲンだろうか。

音楽でも、団結する方向の人々はいる。
クラシックの人々はすごく助け合う。
リサイタルにはお互いに顔を出すし。
お花を贈ったり、チケットさばくの手伝ったり。
合唱団とかオーケストラとかは、団体で動く上にそのまとまりみたいな協会なんかもしっかり組織されている。

ジャズは絶対つるまない。
人のライブにはめったに行かない。
行って、ただ聴いて帰るだけというのは、ちょっと嫌みな感じ。
偵察か?
でも、行って進んでシットインして、めちゃくちゃにするひどい人もいたりして。
まるで闘いだ。

つるまないのは、同類にこだわるから。
その「ここからそっち」は我が領域ではない、みたいな潔癖感はすごい。
微細であるが故に、外部からは違いが全然分からなかったりする。
でも、当人たちにとっては「自明の差異」があるのだろう。

多分、心理学の治療技法なんかもそうなんだろうな。
理論が違う、技法が違う、派閥が違うとか。
でも、きっとそれは、「人間のひとりずつについて潔癖」であるためなのだ。
自分だけではなく他人も含めて、ひとりずつの違いを感じ取るセンサーが強い。

もうひとつ。
団結できないのは、肩書きとかで生きていないからかも知れない。
肩書きがついちゃうと、それ以外のことに不自由だから、アメーバみたいでいないとさ。
その自由さが、革新する時に何より大切だから。

でも実際、つき合い辛いよ。
安心感はない。
ものすごく率直だし、黙って軽蔑して離れていっちゃったりする人たちなんだ。

そういう私は、幼い頃から集団行動が苦手である。
行列とか常連とかも、とてもとても苦手である。
誰かに合わせたり、気を使ったりするのがど下手である。

たいてい、一人勝手にうろうろするのが好きである。
ひとりで決めて、ひとりで進めるのも好きである。
だからこうなんだけど。

これではいかん

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すごく反省している。
何が?
どうやら太った。
美的には太っても気にしない傾向が強まっているが、歩いていて重いのは困る。
それほど美食もしていないし、大食もしていない気がするが、それでも太る。
なぜだろう。
甘いものも食べない飲まない。
時々血糖値が下がりすぎて、目がチカチカするくらいだ。
一日三食食べる日は、一食は本当に少しにしている。
言わば、「飢餓状態になって具合が悪く」ならない程度にしか食べていない。
その上、私はお酒も飲まない。
それで、なぜ太る?

体質なのか。
子どもの頃からぽっちゃりだった。
歌を始めた頃は大分痩せていたけれど、それでも現在のお嬢様たちよりは太めだ。

どうすれば良いのか。
毎日1時間くらいは歩いている。
それを、週末に3時間くらい歩けば良いのか?

ジムは、とっくの昔に無理と分かった。
3回も入会退会を繰り返して、結局時間が取れないことが判明して辞めた。
女性は、シャンプーや化粧の時間がかかるからねぇ。

とにかく、腰に来ないうちに何とかする。
まずは、テレビ鑑賞時間にひねりと腹筋だな。
頑張るぞ!!!
「勉強しろと子どもに言う親は、自分が勉強嫌いである」という説があるらしい。
すごく納得。
私は勉強が好きなせいか(学校の勉強という意味ではないが)、子どもたちに「勉強しろ」と一度も言わなかったみたいだ。
言われた記憶がないと証言していた。

私の兄弟は親の言いつけで医学部だったが、どうやら幸せではなかったみたいだ。
それもあって、何となく自分の子どもは程々で良いと考えた。
でも長女と長男はせっせと勉強してそれなりの大学に合格した。
次女は学校には適さなかったけれど、仕事では良く勉強して、色々資格を取ったり、接客コンテストで日本一になったりしている。

ボーカル教室では、勉強をにおわせることは、たとえ小出しにしたとしても、必ず生徒の溜息を招く。
顔を曇らせて「難しい」と言う。
でも、そう簡単に「難しい」と言うな、と思う。
私のレッスンではなるべく、ここでしか訊けないことを伝えてあげたいと思うので、中身が高度だ。
でも、家でもできるようなルーティンをやっては、時間とお金がもったいない気がする。
それでもレッスンに、「練習機会」を望む考えもある。

理論みたいなことを少しでも出すと、ずずーーっとみんなが引いて行くのが分かる。
理論というより、楽譜を参考に、少しでも感じていることの後付けができれば良い、という程度のことでしかないのだけれどね。
私自身も、歌に必要以上な理論は逆に邪魔かも、と感じているし、そんなに詳しくもないし。

ジャズは難しいからア・ピールできないと考える人たちもいる。
もっと、一般の人たちにも分かるような曲をやった方が良いとか言われることもある。
でもそれだと、何もかもが同じ様なものになりはしないかな。

ジャズの隆盛を願う声も聞くけれど、残念ながら、これは流行ものではない気がする。
いつも言うように、「基礎研究部門」であり、幾分ハイカルチャーである。
だから、難しいものなのよ。
色々勉強しないと理解できないし、楽しめないし、演奏する側としても理想は叶わない。

勉強というと堅苦しいけれど、それは言い換えると上手にやるための工夫であり、それに至るための分析や点検ということ。
おいしい料理を食べたい人は、お取り寄せとか、調味料の研究とか、道具の知識とか、色々なことに食指を伸ばすはず。
それと同じことをすれば良いのだけれど、音楽はやはり、ある程度専門的な指導にしたがわないと、方法が見えにくい。

勉強は、そのテーマを面白いと思って、燃えている人に直接習うと楽しい。
最近は、それが少しずつ浸透してきている気がする。
私は生徒にも「勉強しろ」とは言えない。
それは、やりたい人だけがすることだから。
ただ、やれば楽しいと、その体験を感じ取ってもらいたいなぁと、切に願うだけだ。

やっちまうこと

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人と話していて、色々なことを思いつく。
テレビを見ていても、本を読んでいても、色々なことを思いつく。
「これ、何とかなりませんか」と相談を持ちかけられると、予定の何倍ものアンサーをご用意できる。
この能力は何なのだろうか。

主婦業の傍ら、頼まれライターを始めてしばらく経った頃には、編集プロダクションの企画書担当になっていた。まったくずぶの素人だったのに。
「次は和菓子の本だからアイディア出して」とか
「お花のムックで博物学ページやって」とか。

そんなことをドバっと振られて、そこから資料探しを始め、積み上げ振り分け選び出して組み立て、みたいことばかり得意だった。
ざっくりしたテーマをもらうと、それを基に、完成品のイメージを創り上げて行く。
「イメージ」というものが、私の中ではすごく大事。

普通はイメージがあっても、実際にやっちまったりしないのかも知れない。
例えば、音楽祭みたいなことまでやっちまった。

ライブも、大体コンセプトで考えている。
コンセプトありきのメンバー選び。

それで現在の会社まで来たが、自分ひとりでないところが面白い。
様々な人を巻き込みつつ、巻き込まれた人々も微かに幸せになれるような、そのようなことをやっちまう。

頭の中がもやっとしていてまとまらない時間もあるけれど、まとまり出すと壮大な計画だったりして。それで、レコーディング・スタジオまで出来てしまったのだな。しかもスタジオでスクールもライブもワークショップもセッションもやってみたり。

やっちまうと、それなりに面白いよ。
大変なほどにはやらないけど。
みなさん、一緒にやりましょ。
数週間前にふと「もっと人と関わりたいな」と思った。
それで、今までならやらなかったほどの近づき方や話をしている。
今のところ、いい感じ。

今までの私は、わりと付かず離れずに付き合うことが多かった。
以前にセラピストの先生に「好かれると後ずさるでしょ」と問い詰められたことがある。
「支配される感じがするのかな」とも言われた。
確かに。
好きといわれると恐怖心が沸く。
別にストーカーにつきまとわれたとか、好かれて困ったことになった経験はない。
でも、好かれそうにならないようにすごく警戒している。

それは多分、もっと幼い頃の記憶に由来している。
ただし、それを今更どうこうする気持ちはないので、これからは、私なりに好ましいと感じる愛情表現の方法を差し出すようにすれば良いのではないかと思いついた。
それを試してみている。

気づくと、すでに還暦が近い年頃な訳で、今更とは思うが、今更だからできることって意外に多いと最近感じている。
愛情表現もそのひとつ。
他には自分のアピール。
私のできることは結構たくさんあり、みんながそれと気づいてくれているかどうか分からないことも数あるので、自覚できている事柄に関して「できます、やります」とアピールしてみようかな、と考えている。
若い頃はそんなの恐れ多くて恥ずかしかった。
でも、今となると、今やらないともうやる機会がなくなってしまう、と自覚してきた。
恥ずかしがる年頃ではないので、やるようにします。
まあ、宣言するほどのことはないかも知れないけど。

あ、そして皆さんからのリクエストもお願いします。
やって欲しいこととか、教えて欲しいこととか、一緒に考えて欲しいこととか、手伝って欲しいこととか。
極力お応え致します。

80歳の方々

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この間、中野のsweet rainにライブを聴きに行った時、ママさんと私が同い年であることが判明。ともに昭和30年生まれであった。
そして、「私たちは何歳まで頑張れるか」という話題になった。
その時、ジャズシンガーの後藤芳子さんが80歳であることを知った。
中牟礼さんの80歳のバースディーライブに来て頂いた。
そして、鈴木勲さんも渡辺貞夫さんもギタリストの塩崎さんも80歳であるということに気づき、「凄いなー」と心から感心したのである。

一昨年に色々なことが起きて体調を崩して以来、私はかなりの怠け者になっている。
土日など、ずーーっと、FOXチャンネルのドラマを見続けている。
同じシリーズを続けてやるので目が離せない。
それは、「一気見サタデー」というのだ。

先週末に加藤崇之君に会いに西荻のボサノヴァのお店に行って、健康のことなどを話した。
加藤君は煙草のせいなのか、ハードな演奏活動のせいなのか、肺気腫になりかけて、心臓が苦しいらしい。
そして「見かけは静かに弾いてるように見えるだろうけど、弾いているときの心臓の調子から推して、ものすごく興奮状態であることが分かる」と言っていた。
納得。

それで「一気見サンデー」を眺めながら、時々歌が爆発してしまう自分のことを改めて考えた。
初めてそうなったのは、弟が死んだ後だった。
それは、ショックという言葉などでは、到底追いつかないほどの、私の人生を根底から揺さぶる事件だった。
その一週間後後にライブがあった。
気持ちではいつもと同じように歌おうとするのだが、どうしても吠えている。
「あ」と声が出た途端、咆哮に変わる。
胃の中にある怒りとか、悲しみが絞り出されているみたいだった。
以来、時々何かが溜まるとそうなる。
オペラとかゴスペルとかって、多分こういうはたらきを利用するんだよね。

80歳まで活躍している方々も、若い頃にはそれ相応の爆発があったような気がする。
それほどのエネルギーがないと、続けられないのではないだろうか。
そういう時期は過ぎるのだろうか。
果たして、現在の心の中はどんな風なんだろう。
現在でもやはり、演奏が終わると頭の中が興奮していたりするのだろうか。
その状態でいてなお、80歳まで演奏活動を続けるには、別のことで工夫が必要だろう。

こんど中牟礼さんにお会いしたら訊いてみたいな。
若い頃と現在の、演奏中のテンションのことなど。

お天気次第

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昨日から心がもの悲しい。
淋しい。
どうしたんだろう、と思いつつ、お天気かも知れないと考える。
からりと晴れて、心地よい日は、理由も無く幸福感が溢れて来る。
ああ、なんて素敵な我が人生。

昨日からどんよりと曇っていて、けれど一向、雨も降らないとなると、気持ちのやり場がない。元気も出ないし、幸福でもない。
若くして亡くなった人々のことを思い返したりする。

もしかして、私は単なるお天気次第な人かも知れない。
けれど、そう決めると、とても楽になる。

心の調子が、何によって決められているか、本当のところなど、分かったものではない。
でも確実に、元気な感じの時と曇った時では、読みたいもの聴きたいものも変わって来る。
曇りの日にやっと、絵本の素晴らしさを思い出したりする。
細々した字のたくさん詰まった理屈っぽい本などは、そういう時には読めない。
きれいな色の、少し悲しい部分もあるシンプルなお話が見たい。

それはそうと、このところ小説を読んで感心することが減ってしまった。
昔はいつもたいてい感心していたのだが。
それは私が歳をとって感性が昔臭くなってしまったからだろうか。
それとも、本の選び方が良くないのだろうか。
卒然として本を置き、しばし感慨に耽る、というような気持ちには、なかなかならなくなっている。
書き手の経験するものが、私とは違ってきたということもあるだろうか。

お天気次第で、心の色がずいぶん違う。
曇りのはっきりしない日の「あーーあ」という地色は、生涯変わらないのかも知れない。

今はただ、無垢なお日様の登場を待つばかりだ。
人と人が分かり合うってどういうことなんだろう。
「共感的理解」という専門用語がある。
よく営業マンが口にする「そそそ、おっしゃる通り」というのもある。

いっぱい話して、しばらく経って、ああ、なんか通じたかもなぁ、と思うこと。
時には、そのように話そうとしても、お互いが別の世界にいたりして。

人は自分を認めてもらえたり、安全だったりする場所を欲する。
だから、それと違うとむっとしたりする。
けれど、だれひとりも、他人の欲求に合わせきってやろうなんとは思わないだろう。
思わないのが良い。
思う時には、別の、下心みたいなものが介在しているはずだから。

人は、だから基本的に放っておかれる。
放っておかれるのが当たり前な状態だ。
好かれて、例えば異性に好かれすぎて、その人の妄想界に適応せよと迫られたら、すごく不快だろうな。
離れてくれ、遠くへ行っといてくれ、と言いたくなるだろうな。

でも、余り放っておかれると、淋しい気持ちになる。
それで、行きつけの飲み屋とかに行く。
知っている人がいて、家族の薄いもののように、付かず離れず、好きな時だけ、好きなくらい一緒に居る。
それはそれでも良いんだが。
淋しすぎるためか、わーわー騒ぐ人が必ず居るんだよね。

いったい、人はどんなだと気分がいいのだろうか。
誰かと喋るのは楽しいかも知れない。
ただし、喋り倒される恐れもあるので二の足を踏む。
たまに、程よく語り合って満足できると、これはすごい、と感じる。
その、互いの「適当」さが素晴らしいと感じる。
適当って、ちょうど良い感じということなんだ。
「適当」がバランス良く釣り合うと気分がいい。
ただし、それはとても稀なことだからね。

分かり合うって、もしかするとコンテンツではなくて、そのバランスのことかも。
今はヘヴィはよしておきましょうね、とか、本日はガツガツ行きまっせ〜とか、その加減が伝わり合うこと。
分かり合うって、そのことかも!!


心は、うろうろする。
執着するし、哀しむ。
何に対してそうしているのか、良く分からないままに。
どこかが辛い。
意欲が湧かない。
何を諦めようとしているのか、自分には見えない。

ふと、部屋の片付けや掃除をしようと思い立つ。
初めは徐々に、次第に勢いがついて...。
幾分すっきりすると、心もすっきりしている。
韜晦や言い訳が減っている。
身体も軽くなったように感じる。

何かの契機がある。
行為そのものとは全く別の方向から、それは静かにやって来る。
浸透して、少しずつ力をくれる。
気づかないほど微かに、けれど決定的に私は変わる。
そうしていて、日が過ぎる。

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