重い1票と無邪気な多数票

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選挙のたびに、自分のFBやTwitterライン上のコメントから想像するものとかけ離れた得票結果が出て、戸惑う。
そしてその都度、自分のタイムラインには、似通った意見の人が集まっていたということを、再認識するのだが...。
つまり、世間は、私が「良い」と思うことに賛同する人の集まりでもないし、姿でもない、ということ。

分かってはいる。
分かっていながら、何度も失望し、戸惑う。

政治に関心を寄せる行為、あるいは姿勢と、実際に誰かに投票するという行為との間には乖離がある。
政治理念とか、政策とは関係のない、例えば人間関係のしがらみとか、帰属意識などの方が「投票」行為に結びつきやすいのだ。
ひとりがどんなに真剣に政策を読み込み、理念や歴史までさかのぼって熟考したとしても、単なる1票に過ぎない。
けれど、政策などはどうでも構わず、単に自分の所属している団体や地域の気分、または慣習に従い、連れ立って投票に行く人たちの票はまとまった数となる。
多数決は、それで結果が決まる。
「衆愚政治」とは思いたくないし、カリスマ政治家も要らないとは思うが、どうにかしないと危なくないか?
日本、大丈夫か?


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このページは、kyokotadaが2014年2月10日 13:11に書いたブログ記事です。

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