kyokotada: 2011年12月アーカイブ

いちねん

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クリスマスが終わると、いきなり年の瀬だ。
今年の手帳を開いて、いちねんを振り返る。
1月2月は、新しい年への期待と意欲。
イベントやコンサートにしばしば出かけている。
3月の震災後は、仕事やイベントにキャンセルの横線が目立つ。
4、5月と隙間が多いのは、人の動きがまだ戻らない感じだ。
4月にホールでソロピアノのレコーディング。
連休は娘たちと伊勢神宮に出かけた。
夏休みの日々には何の予定も書いていない。
家にいたのだろうか。
疲れていたかな。
秋にかけ、新譜のレコーディング準備、発表会、ライブなどイベントものが続く。
ひとまわし、一段落していちねんが終わる。

今年も大切な友だちが亡くなった。
実家が無くなった。
喪失感は大きい。
喪失があるたび、今までは、動揺した。
今年になって、このまま、喪失したまま、生きていけばいいのだ、と気づいた。

昨日観た映画の中で、ガンで死に行く母親を演じたスーザン・サランドンが子どもたちにくり返し言った。
「寂しくてもいいのよ」
いい台詞だと思った。
寂しくてもいいのだ。
いたずらにはしゃいだり、元気よく振る舞わなくても。
寂しくてもいいのだ。
しずかに、噛みしめるように生きていても。
震災と津波と原発事故。
作家の瀬戸内寂聴さんが、被害の最もひどい現地に出かけて説法する番組。
頷いたのは、本来、この世は不条理なのだという仏教の考え方。
善い人でもひどい目に遭うし、碌でもない人がラクをしたりする。
そうだよね。
天に徳を積むという考え方もあるし、自分の心の安心が大切という考え方もある。
けれども、人は平等に弱い。
皆同じことで苦しむ。
生老病死、困窮、孤独。
嘆いたり、怒ったり。
でも時には助けられて嬉しいこともある。
それがあまりに嬉しいので、人に喜んで欲しくて助け癖がつき、それで自分の首を絞めたりする。
そういう、アホなのが人だ。
反対に、人をガシガシ傷つけていてもそれに気づけない鈍感な人もいる。
自分の身の回りで起きている事態を自分が引き起こしたこととは自覚できないので、いつも他人のせいにして怒っている。
すごいな。
かように、世は不条理で満ちていて、生き延びるにはそれなりの心がけが必要なのだ。

しかし、その心がけの極意というものは誰にとっても確かでない。
ひとつだけ分かるのは、自分を滅ぼさないこと。
時々、癖で、滅びようとする。
「滅びろ」という暗示をかけられた人のように。
滅びてはいけないのよね。
暗示をかけられたのだということに気づかないと。

いつどんな立場にいても、私は、これやってもやらなくてもどちらでもいいや、と感じているフシがある。
生きているから、黙って動かずにいるわけにはいかないので、やるか、と感じている。
今の仕事など、自分の食い扶持と考えると、アホらしくてできないことだ。
リスクかぶって、大方ボランティアみたいなこと。

でも、それでも何とか生きているから良いのかな、と思う。
みんな、私の取ったリスクでいろいろなことをできる。
それは、私の買った柿の種から、木が育ち、実がなってみんなで食べているみたいことだ。

やってもやらなくても良いことだけど、できれば質の良いことをしたい。
質の良いことにしたい欲がない種類のことは、やらないに越したことはない。
たいてい蛇足になるから。

音楽なら、その周辺の制作なら、指導なら、できる限り良いものにしたいという欲はある。
だから、今でも続けていられるのかな。
人のやることは自分の身になってみると、意外とあっさりしているもんだな。


休みかた

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余裕がないときは、本が読めない。
それほど頭の中がいっぱいになる。
本を開いて、文字を追うけれど、読めない、もしくは頭に入らないので、「今は読まなくていい」と決めるのだ。
頭の中がいっぱいになっているかどうかをはかるテストみたいだ。
そして、そういう日々にはよく眠れない。
夜中まで、何を考えるともなく起きている。
本は読めないので、ただじっと、眠くなるまで待っている。
暗闇で、天井を見つめて、あるいは目を閉じてじっと待っている。

身体や心、それから頭も、ほとんど自分の思うようになんてならない。
思いがけず緊張したり、怖れたり、怒ったり、逆に馬鹿笑いしたりする。
笑いながら、「これホントに私?」と訝っている。

私は、あまり私のことを知らないのかもしれない。
何をどう感じているのかも、それが何故なのかも、今後どう変わるのかも、ほとんど何も分からないのだ。
そういうことを、文脈にまとめて、ひとつのストーリーに変えてみる。
そのやり方だけが、私らしいのかもしれない。

休むことが苦手だった。
休むということの本質や効用についてほとんど何も知らなかった。
それが今、やっと少し分かるようになった。
休むとは、自分の疲れを正しく捉えることだ。
そして、それを癒すことを浪費と思わないこと。
上手に休めたことを喜ぶこと。

今日はやっと、少し本が読めそうな気がする。


一大事業のレコーディングも無事終わり、そのすぐ後に控えていた自分のライブも終わり、今日は休日だ。朝起きると、頭痛がしていた。楽しいばかりではなく、やはり疲労もあるようだ。

その、頭痛の合間をぬって、「ホスピタリティー」という言葉が頭をかすめた。
もてなしの心、いたわりの心、みたいなこと。

レコーディングの間は、メンバーの健康やコンディションの観察に神経を使う。78歳のギタリスト、中牟礼さんには、時間割の設定、休憩時の飲食の手はず、宿の手配、リラックスのための会話。もちろん、ご自分でしっかり管理されてはいるが、3日間神経を張り詰めるのだから、こちらも本気でかからねばならなかった。

演奏してくれるゲスト・ミュージシャンの中にも、持病を抱える人、遠方から駆けつける人がいて、それぞれの元気具合や機嫌をさり気なく観る。スタッフももちろんのこと、コントロールルームの混み具合に合わせたアシスタントの数、曲によってのディレクションの優先順位など、程良い緊張感を保つのに観察と配慮が欠かせない。

今回はそれに加えて、プライベイトの案件が重なっていた。実家の売却、判断力のない母に変わる代理人を誰にするかのトラブル、サインするかしないかの駆け引きや、たくさんの疑心暗鬼を傍から修理しつつ事を進める。私はほとんど当事者ではなくメンテナンス係だが、怒りや失望の愚痴を聞くのはなかなか大変だった。

そして、今朝、それほどのホスピタリティーを続ければ、私自身がもてなされなくては回復しないということに気づいた。

ご飯なんか全然作りたくない。
誰か美味しいものを私にご馳走してくれないかなぁ、という気分。
誰でも良いから、私をもてなしてくれないかなぁ。
人は、バランスをとらないと、どこかで壊れるみたいだよ。
私は、自分をもてなしてくれる何かを、自分で探さないとならんのだろうか。
そういう私を、観察しててくれる人は、いるのかな?

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