kyokotada: 2015年11月アーカイブ

今の私。

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ネットにあがる様々なコメント。
FBやTwitterのライン上で、喜んだり悲しんだり。
でも、ふと「それはみんなの本当の気持ちなのだろうか」と腑に落ちない気分になる。
ネットにこれらのような機能が無い時は、きもちはあらかじめ自分の中にだけあるもので、どうしても伝えたい相手にだけ、わざわざ知らせるものだった。

今では、何かをする度に記事のように編集して報告することができる。
でも、私は、どうにもその行為が苦手だ。

ライブをしても、写真を撮ったり、それをライン上にアップしたりすることをすぐに忘れる。音楽や演奏に夢中になってしまって、そちらに気が回らないのだ。
それは、お客様に声を掛けることでも起きていて、チラシを配ったり、ライン上で告知することはしても、個々の方に電話したり、メールしたり、ができない。
忙しすぎて暇が無いのも理由のひとつだとは思うが、忙しくてもひっきりなしに電話して誰かにお願いしている方もいるのだから、これは自分の気力の無さだとも思う。

いつからか、人の話を聞く時に、ライター時代の名残なのか、取材するがごとく真剣に聞く癖がついて、軽く聞き流したり、つまらないなと思っても、話の腰を折ることができない。
知らないうちに相づちばかり打っていて、めまいがすることすらある。
そんなわけで、人といるとすっかり疲れてしまう。

本当のきもちは、私の場合とてもフラットで、あまり喜怒哀楽が激しくない。
波瀾万丈の人生で、いちいち感情を動かしていては、疲れすぎてしまうために、自己防衛的にクールになったのかも知れない。

それでもこのブログを書き始めた頃は、言いたいことがいっぱいあった。
ライター仕事をしていていつも文章を書いていたけれど、それは自分の言いたいことではない、と感じて、日々のきもちを精一杯書き綴ってきた。

最近、書きたいことがない。
日々、中身の濃い、沢山の仕事をしているけれど、気持ちは平坦なのだ。
充実しているし、創造的だと思う。
それでも、書きたいほどのことがない。

それで思いついたのが、いよいよ、文章書きになる時期かなぁ、という予測だ。
自分のことではないことを、つまり、売文を書けるようになっているかも知れない。

歌はずいぶん進化して、憂いなく、いつも楽しく歌える。
けれど、それは誰かの需要を満たすものではない。
別に、達者な歌だからといって聴きたい方がいるわけではないことを最近つくづく感じるようになった。
歌を聴きに行くのは、練られた芸を鑑賞するためではなくて、共通の友人に出会うための、ひとつの社交なのではないだろうか。

それは良いとか悪いとかいうものではない。
当たり前にある状況を、あれこれ評価するのは的外れだ。

時代状況のせいか、プロのミュージシャンに会うと、みんなそこはかとなく疲弊している。
幾分投げやりな人もいる。
どれほど素晴らしい境地に達しても、素晴らしい演奏をしても、それらが理解されることは少なく、理解して頂いてもそれは、ごく少数のコアな音楽ファンからだけ、だったりもする。そしてそれは、古今東西変わらない現実だ。
それが分かって、それでも飽かず精進するか、いちど努力を措いて、別の道を模索するか。

私は次に何を目指して、何をしようとするだろうか。
生きていくのには、ただ楽しいだけではない手応えが必要だ。
ああ、これだ、という充実や満足。
それが、私の中でがらがらと変わりつつある。

生きていく時に、今以上に充実するものに育つ何かが、私のすぐ隣で産まれようとしている、そんな予感もしている。

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